まず昨日、漢字間違いを指摘されました。“無限”地獄ではなくて、“無間”...。大変失礼しました。無間です。お恥ずかしい限りです....。さて、みな心の中に地獄や天国、修羅や餓鬼を持っている訳です、常に穏やかな人間でいたいけれど世の中無常....。何かの拍子で落ちる時がある...。すべて時間が解決してくれると金輪際を待っても、確実に跳ね返りがあるのかどうか....。“無間”地獄に落ちるのではないか...。こんな事書きながら、パラパラとプレジデントの最新号を眺めてたら、そのものズバリ、迷いが晴れる禅の手引き....。とありました。これまた邂逅(かいこう=出逢い)かと、しばし読み耽っておりました。今日はなにも嫌な事が起きていないのに、過去の忌わしい記憶を付着させて相手を見る。忌わしい記憶など忘れてしまえと言ってもそう忘れられるものではない。忘れろより、記憶しない努力なんだそうです。吾喪我(われ、われをうしなう)...禅の世界ではそう呼ばれているようです。昨日笑ったのと同じことに今日笑える事、昨日怒ったことに今日また怒るのも良し。問題は昨日の怒りの記憶の上に、今日の怒りを塗り重ねて行く、昨日の笑いの記憶のせいで今日笑えない....なのだそうです。禅問答と言われるくらいですから何のこっちゃとお思いでしょうが、具体的な事柄を重ねていくと見えるものがある...。怒りの記憶の上に怒り....。やがて憎しみの連鎖となり、憎しみの連鎖は加害者を被害者に、被害者を加害者にさせ、お互いを地獄に突き落とす...。すべての感情も記憶もすべて“無”にリセット、禅で言う“前後際断”の境地になると“日々是好日”であると。人間は当然の事ながら一人では生きて行けず、他者との関係性の中で生きている。すぐに慢心し嫉妬する。関係性であるので、相手のとんでもない行動にも少なからず意味があることに気付く。(我慢も慢心の一種なんだそうです)相手の態度も自分次第。仏教で言う相互依存とはそんな事から派生し、その人が“した事”ではなくて、その場で発生した“出来事”と捉えるのだそうです。続きは明日。