今日、国際支援NGOで活動している知人からメールをいただいた。
その内容をここに書く積もりはないが、
その中の一部の文章がとても印象に残った。
「NGOはそのドナーやボランティアによって支えられている。
しかしながらそのNGOの会員数は頭打ちで毎年財政難に悩んでいる」
「ドナーやボランティアはどんなベネフィットを得ているのか」
なるほど。
もちろんメールの主旨に対する返信は改めて送る積もりだし、
本記事とは直接関係ないので、その部分は割愛するが、
今はちょっと上記の部分だけ考えてみよう。
基本的に、誤解を恐れずに書くと、
「無償の奉仕、喜捨はあり得ない」と思うのだ。
誰しもそのボランティアアクトや寄付などに見返りを求める。
それは相手の笑顔だったり、自分の満足感だったり
宗教的な喜捨に関して言えば、心の安寧だったり
ということも含めての話だが。
例えば私が彼のNGO活動から得たベネフィットは
「知る」ということだ。
途上国の(特に下層の)現状や実体。
そういう人々に対する先進各国の姿勢。
そしてどのようにNGOの方々が活動しているのか。
そこにはノンガバメントとしてどんな哲学があるのか。
彼らの活動を通し、そしてその後得た情報により、
私は初めてそれらを「知る」ことができた。
「知る」ということも重要な見返りだと思う。
そして「知る」ことの次に「しっかり見据える」ことができるかどうかだ。
そこに「会員数の頭打ち」に対する大きな答が隠れていると思う。
「知らない」あるいは「知っているが見て見ぬ振りをする」
(という表現はともかく( ;^^)ヘ..)
そのことの解決なしにはその問題の答は出ない。
ちょうど昨日の朝日新聞に、
同じことを主題とする映画の批評が載っていた。
映画の題名は「ホテル・ルワンダ」。
ルワンダのフツ族によるツチ族大量殺戮を描いた映画だ。
映画のコンセプトを批評は
「世界中に『知ること』と『目を背けない』ことを求めている」
と述べていた。
「これらは単なる民族同士の殺し合いではなく、
何もしない世界中の我々も間接的に加担している加害者だ」と。
映画のセリフだと思うが
「世界の人々はルワンダの悲劇を知って『大変なことだ』
と言って、ディナーを食べる」
という言葉が重い。
「先進国で余った武器を国連の飛行機で堂々と密輸」し、
武器の大量消費地として見て見ぬ振りをする先進国と呼ばれる国々。
「40万人ものツチ族犠牲者が投げ込まれた湖で捕れる魚を食材として輸入」
している日本の無知。
「知る」ことや「しっかり見据える」ことの大切さを
私達はメディアや色んな情報からの他
NGOの活動を通して知ることもできるのだ。
NGOにはそういうことを伝えるという大切な使命もあると考える。
・・・ということで、改めて返事を送ります。>rwwaさん。
その内容をここに書く積もりはないが、
その中の一部の文章がとても印象に残った。
「NGOはそのドナーやボランティアによって支えられている。
しかしながらそのNGOの会員数は頭打ちで毎年財政難に悩んでいる」
「ドナーやボランティアはどんなベネフィットを得ているのか」
なるほど。
もちろんメールの主旨に対する返信は改めて送る積もりだし、
本記事とは直接関係ないので、その部分は割愛するが、
今はちょっと上記の部分だけ考えてみよう。
基本的に、誤解を恐れずに書くと、
「無償の奉仕、喜捨はあり得ない」と思うのだ。
誰しもそのボランティアアクトや寄付などに見返りを求める。
それは相手の笑顔だったり、自分の満足感だったり
宗教的な喜捨に関して言えば、心の安寧だったり
ということも含めての話だが。
例えば私が彼のNGO活動から得たベネフィットは
「知る」ということだ。
途上国の(特に下層の)現状や実体。
そういう人々に対する先進各国の姿勢。
そしてどのようにNGOの方々が活動しているのか。
そこにはノンガバメントとしてどんな哲学があるのか。
彼らの活動を通し、そしてその後得た情報により、
私は初めてそれらを「知る」ことができた。
「知る」ということも重要な見返りだと思う。
そして「知る」ことの次に「しっかり見据える」ことができるかどうかだ。
そこに「会員数の頭打ち」に対する大きな答が隠れていると思う。
「知らない」あるいは「知っているが見て見ぬ振りをする」
(という表現はともかく( ;^^)ヘ..)
そのことの解決なしにはその問題の答は出ない。
ちょうど昨日の朝日新聞に、
同じことを主題とする映画の批評が載っていた。
映画の題名は「ホテル・ルワンダ」。
ルワンダのフツ族によるツチ族大量殺戮を描いた映画だ。
映画のコンセプトを批評は
「世界中に『知ること』と『目を背けない』ことを求めている」
と述べていた。
「これらは単なる民族同士の殺し合いではなく、
何もしない世界中の我々も間接的に加担している加害者だ」と。
映画のセリフだと思うが
「世界の人々はルワンダの悲劇を知って『大変なことだ』
と言って、ディナーを食べる」
という言葉が重い。
「先進国で余った武器を国連の飛行機で堂々と密輸」し、
武器の大量消費地として見て見ぬ振りをする先進国と呼ばれる国々。
「40万人ものツチ族犠牲者が投げ込まれた湖で捕れる魚を食材として輸入」
している日本の無知。
「知る」ことや「しっかり見据える」ことの大切さを
私達はメディアや色んな情報からの他
NGOの活動を通して知ることもできるのだ。
NGOにはそういうことを伝えるという大切な使命もあると考える。
・・・ということで、改めて返事を送ります。>rwwaさん。
【一人で立って、みんなと歩く】です。
この基本精神がないとえらい方向へと向かいます。日本人が一般にボランティア活動と呼ぶ活動には、まだまだ足場の弱いところがあると感じています。
「ボランティア」戦争映画でもよく使われる言葉ですよね。志願する。
見返りを求めちゃ~いけません。
かっこ悪いもん。
(アムネスティー参加者・あぶさんでした)
ああ、いいことばですね。
たった一言で理念というか自分のスタンスがわかる。
私も初めて「ヘルパーではなくパートナーが欲しい」
という言葉を見た時、目からウロコの思いでした。
そういう言葉は自分で経験しないと実感できないのでしょうね。
ところで私は見返りを求めたいです(笑)
せっかく関わるのなら、
もっと色んなことを「知りたい」のです。
この「知ることができる」ことが私にとっての見返りです。
もっと色んなことを「知りたい」のです
これは究極の戦利品ですよ~(o^-')b
「ボランティアする」ことが当たり前な環境で育ってきた私の戦利品も“知ること”です。一人、一人の小さな秒針を分けてもらうことが出来れば、それだけでドデカイ時間になるのにね。タバコを一本吸う間だけでもいいから・・と思う。あぶさんでした。
無償がアタリマエのように思われていたボランティアも、実費程度は受け取るようになってきてます。
でないと続かない。暇な金持ちしかできない活動ではどんなもんでしよう。
ボランティア活動していないとまともな市民でないようなアメリカも疑問。繁栄と豊かさの象徴のようなボランティア活動の裏に、貧困と差別と無策が見えたニューオーリンズ。
すんません。
たまたま「ホテル・ルワンダ」の記事を
見た直後だったもんで
勝手にブログのネタにしちゃいました(^^;
あまりのタイミングの良さに、運命かなと(笑)
>あぶさん
みんな秒針が惜しいのではなく、
結局は「自分がやらなくても誰かが」なのでしょう。
「ホテル・ルワンダ」のコメントが胸に沁みました。
>うめぴさん
全ての人が・・・とは言いませんが、
アメリカにおけるボランティアは、
ひねくれた私の目には「施し」に見えます。
「ホラ、私は弱者にこんなに施しをしてあげた」
「神様のご加護がきっとあるに違いない」
「God bress you」
その延長線上にあるのが
「虐げられている人達を助けよう」
のイラク戦争なんじゃないかと思う訳です。
もちろん大きな下心もあったでしょうし(笑)
初めて行った時からお世話になりました。
うちの息子とその親友のMの肩を抱いて
大感激してくれたことが忘れられません。
なかなかの情熱家で・・・ラブストーリーさも有りなん(笑)
私達にとって現状を「知る」ことが見返りですが、
貴団体にとって、貴団体を広く知ってもらうことが
最も大切なことではないのかなと思っています。
面白い論文にヒットしました。上記URLです。
文教大学経営学部助教授の小栗俊之さん。「ボランティア行動における動機づけ理論」題名だけ見ますと物議醸造な感じですが(^^; 内容は、どっしり純米な面白さでした。帰国したらお会いしてみたい方です。内閣府や自治体も市民のボランティア意識調査などウェブ上で公開してました。ありがたいです^^
なるほど面白いし、うなづけるところ多数。
「こう言えばよかったのか」と
私の言いたい事もちゃんと表現してくれてます。
私はボランティアという言葉があまり好きじゃない。
やはりどこかにヒエラルキーを感じてしまいます。
日本語的な肌触りでは、
施すものと施されるものというニュアンスがある。
「共にいたい」と思います。
そして私の方が心の糧を施されたい。
それが動機であり、「見返り」なのかも。
なんかうまく表現できず、ヘンな日本語になりました(^^;