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上野公園の元の地主の寛永寺の遺構は、さすがに数も多く広くに分布していました

2015-10-11 08:00:00 | 日本の町並み
 かつての寛永寺の境内に、数多くの博物館や美術館が集中して、東京の文化の発信源のような所が上野公園一帯でした。上野公園一帯は、寛永寺の旧境内であったことは、前回に述べましたが、今回はこの寛永寺関連の史跡や、公園一帯の神社仏閣を中心に、博物館などとは違った上野の顔の一部を紹介します。

 上野は寛永寺の旧境内であったことから、その関連の史跡が数多くあり、広大な範囲に散らばっていることから、最盛期には随分と大きな寺領であったことがうかがえます。現在の寛永寺本堂は、芸大や博物館の裏手にひっそりと建っていて、建物も明治期に川越の喜多院の建物を移築したものです。


 寛永寺の遺構の中で、もっとも有名な建物は不忍池の中之島に建つ弁天堂でしょうか。現在の八角の建物は、空襲で焼けた入母屋作りの堂を、戦後にコンクリート製で再建したものですが、蓮の咲く頃に、花の向こうに建つ姿は絵になります。

 
 弁天堂の東の階段を登ると、清水観音堂で、こちらは江戸初期の懸造りの建物が残り重文になっています。不忍池を望む舞台の前には、月の松と呼ばれる木が植えられていて、丸になった枝の向こうに弁天堂が見えます。この松は、広重のうきよえにも描かれている由緒のある松ですが、当然ながら当時の物から代替わりしているでしょう。

 
 清水観音堂を北に行くと、精養軒のそばに五条天神と花園稲荷が並んで建っています。どちらも、他の場所から引っ越してきて、その創建ははっきりしないのですが、五条天神は、日本武尊の東征まで遡るそうで、寛永寺よりずっと古い歴史を持っているようです。

  
 二つの神社の東側は小さな丘が二つ有り、一つは時の鐘が、もう一つはパゴダと上野大仏があります。どちらも寛永寺の遺構で、時の鐘は鐘楼のあとで、現在のものは18世紀に建てられたものです。一方のパゴダは、昭和期の建物ですが、上野東照宮本地仏の薬師三尊像が祀られています。パゴダのそばの上の大仏は、江戸初期に作られた大仏の遺構で、地震や火災で破壊、再建を繰り返し、最後は戦争中の金属供出で顔だけが残ったものです。この大仏は「これ以上は落ちない」ということで、最近は受験生に人気が出てきたのだそうです。

 
 
 パゴダの本地仏は、東照宮の本地堂に祭られていましたが、明治期の廃仏毀釈でお堂は破壊され、東照宮だけが残っています。寛永寺と同様に徳川家ご用達の宗教施設で、徳川家康などが神格化されて祭られています。神格化といえば、徳川家康の知恵袋として活躍した天海僧正も権現号をさずかり、その毛髪塔が文化化開館の裏手あたりにひっそりと建っています。また、東照宮の参道の近くには、「お化け灯篭」が立っています。東照宮に寄進されたもので、巨大さのゆえに、この名前で呼ばれていて、日本三大燈籠の一つだそうです。

 東照宮の隣には、これも寛永寺の遺構で最も目立つ五重塔がそびえています。この塔は、初代の塔が火災で焼けた後、すぐに再建された江戸初期の五重塔で重文に指定されています。この塔は、上野動物園の園内にあり、寛永寺から東京都に寄付され、現在の所有者は都なのだそうです。そのために、この当の名称には旧が冠されているのです。

 上野公園を席巻していた寛永寺は、江戸城の東北の鬼門を守る寺として、京都の比叡山の江戸版で、東叡山の名称が与えられています。宗教施設でありながら、時の権力に擦り寄る姿勢は好きではありませんが、歴史を振り返ると、宗教と権力は密接な関係を持ってきており、権力そのものとなった宗教も少なくありません。人間を救済するはずの宗教は、権力を得るための手段として使われたに過ぎないように思います。倫理観なんてあったもんじゃなく、人間は、所詮は権力欲の権化なのでしょうか。かつての映画で、コンピュータが理性を持って、人間を支配するという結末のものがありました。いがいと、これって正解の一つかもしれないと、思うようになります。ただ、どうやってコンピュータに倫理観をうえつけるんでしょうか。


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