世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

豆田町の町並みも素敵ですが、日田祇園祭の山鉾巡行は昼間の豪華さと日が暮れてからの幻想的な様子の両方が楽しめます

2021-01-17 08:00:00 | 日本の町並み
 石炭積出の小樽港までの運搬路として作られた鉄道路線が手宮線でした。北海道と同様に炭鉱の多いのが吸収ですが、北九州には石炭を運ぶために数多くの鉄道路線が引かれ、石炭の斜陽化と共に次々と廃線の憂き目を受けました。それでも、生活路線として重要な路線はいくつかが残り、その中の一つが小倉市と日田市とを結ぶ日田彦山線です。今回はこの日田彦山線の一方の起点の日田市の中心部を紹介します。

 日田市は大分県の西の端で、メインの駅は久大線の日田駅になります。日田彦山線の起点の夜明駅は市の西端で日田駅から2駅久留米寄りの無人駅で、日田彦山線の列車は、夜明け駅ではなく日田駅まで乗り入れています。市街地の中心は日田駅の北側の花月川までの東西に500m、南北に1kmほどの範囲で、重伝建に指定されている豆田町もこのエリアにあります。

 
 日田は久大線に沿って流れる三隅川の水運で栄え、花月川をはじめ市街地に小さな川が流れ年貢米の積出をした中城河岸跡の近くには港町という町名も残されています。安土桃山時代には、駅の南西の三隅川沿いに日隅城が作られ、江戸初期には市街地北部に永山城も作られました。日隅城は、一国一城令で廃城となりましたが、幕府直轄の天領として明治を迎えました。豆田町はかつての城下町で、天領を支えた産業の一つが日田下駄で、日田駅には日田杉で作られた150cmもあるジャンボ下駄が飾られていました。昔風に言うと60文といったところでしょうか。

 
 駅から重伝建の豆田町に向かう途中、久大線の線路沿いの北西に800mほどのところに咸宜園の一部の建物が残され公開されています。咸宜園は江戸末期に広瀬淡窓によって創立された全寮制の私塾で、幕末に活躍した高野長英や大村益次郎を輩出しています。茅葺の秋風庵と遠思楼の2つの建物が広い公園の橋にポツンと建っていますが、現役の頃は道路を挟んだ西側にも広がる場所に寄宿舎や講堂などの建物が建っていたそうです。

 
 
 
 
 
 
 咸宜園を北に中城河岸跡を超えて400mほど行ったところから北に延びるのが豆田町です。江戸時代の城下町の街並みがそのまま残り、電線の地下埋で無電柱で空の広い町並みが続いています。城下町らしく、町の途中にかぎ型に曲がっていて、現代では見通しが悪く交通には支障をきたしそうです。白壁の土蔵造りに格子のある家並が中心で、なまこ壁のある店もあります。白壁の家並の中ほどに、かつての医院の診療所を転用した豆田まちづくり歴史交流館があります。町づくりの拠点として使われているようですが、土蔵造りの街並みの中ではレトロな洋館が妙に存在感があります。

 
 
 
 
 この町並みで毎年7月に行われるのが日田祇園祭で、江戸中期に京都の祇園祭の山鉾を手本にした山鉾の巡行が行われます。鉾建てから昼間の巡行も見ることができ、華麗な飾りは京都の祇園祭にも負けていない感じがします。圧巻は日が暮れてからの巡行で、山鉾に飾られた提灯に火が入ります。それぞれの鉾町の山鉾が花月川の土手に集まってくる頃がクライマックスで、川面に映る提灯の明かりが幻想的です。

 日田の下駄は江戸末期に殖産産業として興り、明治以降は日田盆地の良質な杉を原料として作られるようになったそうです。筆者の子供の頃には、下駄をはく習慣が残っていましたが、現代では全くと言っていいほど見かけなくなりました。日本人の履物が靴に代わり、見返りに外反母趾や水虫に悩まされるようになってしまったのかもしれません。先日に爪の水虫薬に睡眠導入剤が混入されていた事件がありました。出荷される薬の成分をセンサーなどでチェックする技術はまだ開発されちないのでしょうか。かつてアスクルを見学した時、出荷する荷物の重さをはかり、間違ってないかチェックするが、商品のすべてにICが埋め込まれれば検品は完全になるとおっしゃってました。ただ、どの手法も悪意による混入を見抜くのは難しそうです。


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