世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

朝ドラの「おはなはん」のモデルとなった伊予大洲の「おはなはん通り」はこじんまりと静かにたたずんでいました

2020-05-24 08:00:00 | 日本の町並み
 初瀬街道の宿場町として、また藤堂家の城下町として陣屋の置かれ藤堂家の住居が残る名張は、大阪へ1時間という場所がら現在ではベッドタウンとなっていました。名張藤堂家は、藤堂高虎の養子であった藤堂高吉が江戸時代の初期に移封により開いたものですが、その高吉が名張に移る前に領主であったのが伊予大洲藩でした。大洲城は明治維新で大部分が破壊され、現在の天守は2002年に木造で再建されたもので、肱川あらしの季節ではありませんでしたが川霧の向こうに霞んでいました。今回は、大洲のおはなはん通り周辺を紹介します。

 大洲は、愛媛県の中南部で、最寄り駅はJR予讃線の伊予大洲駅です。松山から宇和島に向かう予讃線が向原で山線の内子線を分岐した後、青春18切符のポスターで有名になった下灘駅のある海線と再合流する駅です。大洲を有名にしたのは、NHKの朝ドラ、1966年に放送された「おはなはん」で、主人公の生まれ育った町という設定で、現在のおはなはん通りはロケに使われた場所の一つです。ただ、モデルとなる林はなが育ったのは、実際には徳島市であったそうです。このおはなはん通りがあるのは、JR伊予大洲駅の南1.5kmほど、肱川を渡って、その肱川が蛇行し町並みが半島のように東に突き出しているあたりです。

 
 
 
 
 おはなはん通りは、松山から宇和島に向かう宇和島バスの大洲本町バス停から東に200mほど入り道がクランク状になっているところから始まり100mほど先のT字路まで伸びています。なまこ壁や土蔵造り、格子のある民家が連なり、側溝には、竹筒を利用した花かごが渡され、流れには鯉が泳いでいます。茶色の世界の家並に交じって、白い壁に赤い三角屋根のある教会が存在感を示していました。

 
 おはなはん通りの手前を北に入ると「おおず赤煉瓦館」があります。この建物は1901年に大洲商業銀行の事務所、倉庫として建てられたもので、現在は資料館、土産物売り場として活用されています。大洲は養蚕業が盛んであったため、これを支える金融機関として設立されたのが大洲商業銀行でしたが、融資の担保として繭を預かったことから、この保管のために倉庫としてのスペースが必要だったのだそうです。戦後に建物などは大洲市の所有になり、銀行は合併、解散を繰り返して現在の伊予銀行となりました。

 
 
 
 おはなはん通りを突き抜けて進むと、右手の山の上にある大洲神社に上る階段があります。この神社は1991年にTV放映された「東京ラブストーリー」のロケ地に使われたそうです。逆に左手を進むと、肱川にへばりつくように重要文化財の臥龍山荘があります。大洲藩の三代藩主が臥龍の名称を与え、その後に作られた庭園は歴代の藩主が好んだ場所でした。明維持時代になって、豪商の河内寅次郎が、この土地に別荘として建てたのが臥龍山荘です。

 
 臥龍山荘と肱川を挟んで対岸にあるのが富士山(とみすやま)で、臥龍山荘の借景の一つとなっていますが、6万本を超えるつつじが植えられ、西日本でも有数のつつじの名所となっています。筆者が訪問した時には、臥龍山荘の下から対岸の富士山の麓まで臨時の渡し船が運行され、山頂からは臥龍山荘の全景が望め、なかなか面白い経験でした。

 おはなはんの結婚相手は速水中尉という軍人という設定ですが、時代は20世紀初頭で日露戦争が起こり中尉も戦争に出征することになっていました。日露戦争ではロシア艦隊が日本海を北上する模様を無線で伝えたことが、この海戦を有利にしたとされています。マルコーニが無線電信の実験に成功して10年と経っていない頃でしたが、国産の無線機は通信距離が1,000kmという実力を持っていたそうです。ただ、現在の無線機のように、特定の周波数だけを使うのではなく、雑音に近いような電波を出す装置であったので、同時に複数の通信はできなかったようです。それから100年ほど、無線通信を使った携帯電話全盛の現在の状況は予想だにできなかったでしょうね。


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