旧海軍の軍港から、引揚者の上陸港にもなり、現在は海上自衛の日本海側での重要な港となっているのが舞鶴でしたが、東海道で唯一の海路である「七里の渡し」の一方の港が桑名です。今回は、東海道五十三次時代の名残だけではなく、ジョサイア・コンドルの設計した洋館も残る桑名を紹介します。
桑名市は、三重県の東の端で揖斐川と木曽川を渡ると、もう愛知県で、名古屋の衛星都市の顔を持っています。2つの川の河口に近くは、輪中と呼ばれる低湿地のデルタ地帯になり、桑名から名古屋寄りに2駅の弥富駅は、地上駅として最も海抜が低い駅で、海抜マイナス0.93mと海面下の駅なのです。隣接した桑名も水の都の雰囲気があり、この水運を利用したのが宮(熱田神宮)との間の海路ということになります。
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七里の渡しの港があった場所は港としての役割は終え、鳥居や石碑が建っているのみで、現在の港は漁港の形で揖斐川の両側に分散化したようです。渡しの跡があるのは桑名城の三の丸跡で掘割が南に延びています。城跡は渡しの跡の南東方向で、現在は公園になっていて石垣と堀が残るのみです。桑名城は水の都らしく水城で掘割が目立つお城で、一部は海につながっています。掘割のそばには再建された二重櫓が城の面影を保っています。
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本陣跡などが残るのが、城跡の西側の町並みで、格子が美しい「うどん屋」さんを写真に撮りましたが、あとで調べてみると、泉鏡花の「歌行灯」に出てくるうどん屋のモデルとなったお店だったようです。さらに、掘割のそばには芭蕉が野ざらし紀行で詠んだ句碑もあります。この句碑は元は句が詠まれた本統寺に建てられていたものが失われ、昭和初期に再建されたものの、戦災で寺は焼失、残った句碑だけが堀端に移設されたのだそうです。
これら江戸の名残の中に明治期に活躍し鹿鳴館の設計者として有名なジョサイア・コンドルが設計した洋館が残っています。七里の渡しの西側にある旧諸戸清六邸の中に明治末期から大将初期にかけて建築された六華苑と呼ばれる木造洋館です。コンドルの作品のほとんどは東京にありましたが、東京から離れた桑名に、それも現存するのは驚きです。
諸戸家は桑名の広大な地所を所有する実業家で、三菱の創始者岩崎家との交流も深かったようです。三菱の顧問をしていたコンドルに諸戸清六が新居の設計依頼をしたものが六華苑ということのようです。東京を中心に、7棟ほどが残るのみのコンドル設計の邸宅の中で貴重な存在といえるでしょう。
この六華苑はお正月などを除きほぼ通年公開されていますが、六華苑の西側にある諸戸氏庭園は春と秋の各々1ヵ月半ほどしか公開されていません。筆者が桑名を訪れたのは夏だったので、外部から門やレンガ倉庫の外壁だけでしたが、入られないとなると余計に見てみたい衝動に駆られます。たまたま、庭園の手入れのためか門が少し開いていて、庭の一部が垣間見られましたが、次は春か秋に来たくなる風景でした。
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この庭園は、六華苑を作った諸戸氏の所有であった庭園ですが、歴史は鎌倉時代までさかのぼるのだそうです。この地に庵が置かれたものが歴史の始まりで、武士の館から豪商の隠居所を経て諸戸清六が購入して店舗や住居として使用したようです。門の前で向きを変える川の向こうに門や倉庫が見える景色も、景色の中に水があっていい感じです。
陸上交通が不便であった江戸時代には、船による移動は歩かなくても目的地に行くことができ便利で楽な移動手段であったようです。現在では、狭くて何かと制約の多い航空機に比べて、船の旅は時間はかかりますが、広くて中を自由に歩き回ることができ、食事も豪華なことが多いものです。豪華客船でなければ、航空機よりも運賃が安いことも希ではないようです。ただし、江戸時代の船は狭くて、現在の航空機と同様に制約のおおい乗り物だったのかもしれません。さらに、GPSや航法支援などのITシステムは皆無だったわけですから、通常は陸が見える範囲を航行していたのであろうと思います。それから考えると、奈良時代に黄海を横断した遣唐使船はすごい冒険だったのですね。
桑名市は、三重県の東の端で揖斐川と木曽川を渡ると、もう愛知県で、名古屋の衛星都市の顔を持っています。2つの川の河口に近くは、輪中と呼ばれる低湿地のデルタ地帯になり、桑名から名古屋寄りに2駅の弥富駅は、地上駅として最も海抜が低い駅で、海抜マイナス0.93mと海面下の駅なのです。隣接した桑名も水の都の雰囲気があり、この水運を利用したのが宮(熱田神宮)との間の海路ということになります。
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本陣跡などが残るのが、城跡の西側の町並みで、格子が美しい「うどん屋」さんを写真に撮りましたが、あとで調べてみると、泉鏡花の「歌行灯」に出てくるうどん屋のモデルとなったお店だったようです。さらに、掘割のそばには芭蕉が野ざらし紀行で詠んだ句碑もあります。この句碑は元は句が詠まれた本統寺に建てられていたものが失われ、昭和初期に再建されたものの、戦災で寺は焼失、残った句碑だけが堀端に移設されたのだそうです。
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この六華苑はお正月などを除きほぼ通年公開されていますが、六華苑の西側にある諸戸氏庭園は春と秋の各々1ヵ月半ほどしか公開されていません。筆者が桑名を訪れたのは夏だったので、外部から門やレンガ倉庫の外壁だけでしたが、入られないとなると余計に見てみたい衝動に駆られます。たまたま、庭園の手入れのためか門が少し開いていて、庭の一部が垣間見られましたが、次は春か秋に来たくなる風景でした。
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この庭園は、六華苑を作った諸戸氏の所有であった庭園ですが、歴史は鎌倉時代までさかのぼるのだそうです。この地に庵が置かれたものが歴史の始まりで、武士の館から豪商の隠居所を経て諸戸清六が購入して店舗や住居として使用したようです。門の前で向きを変える川の向こうに門や倉庫が見える景色も、景色の中に水があっていい感じです。
陸上交通が不便であった江戸時代には、船による移動は歩かなくても目的地に行くことができ便利で楽な移動手段であったようです。現在では、狭くて何かと制約の多い航空機に比べて、船の旅は時間はかかりますが、広くて中を自由に歩き回ることができ、食事も豪華なことが多いものです。豪華客船でなければ、航空機よりも運賃が安いことも希ではないようです。ただし、江戸時代の船は狭くて、現在の航空機と同様に制約のおおい乗り物だったのかもしれません。さらに、GPSや航法支援などのITシステムは皆無だったわけですから、通常は陸が見える範囲を航行していたのであろうと思います。それから考えると、奈良時代に黄海を横断した遣唐使船はすごい冒険だったのですね。