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世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

室町時代から続いた朝鮮通信使の入口は、その面影を残しているだけでなく、九州より韓国に近い制もあって観光客は日本人より韓国人のほうが多いようです

2024-01-28 08:00:00 | 日本の町並み
 前回は江戸時代に外国への唯一の門戸であった長崎を紹介しましたが、対オランダと中国とは長崎が出入口でしたが、お隣の朝鮮との窓口は朝鮮通信使の最初の寄港地であった対馬でした。対馬には今も朝鮮通信使関連の施設や資料が数多く残っています。今回は、朝鮮通信使の歴史館もある対馬の中心地である厳原周辺を紹介します。

 対馬はな行政的には長崎県なのですが、距離的には福岡に近く、高速フェリーも福岡港から壱岐を経由して4時間ほどで運行されています。一方、空路は長崎県ということもあってか長崎空港と福岡空港からDHC8が飛んでいます。南北が80kmあまり、東西は20kmに満たない南北に細長い島で、万関水道で上下の島に分かれています。島で唯一の空港は下(南)島の北端あたり、厳原の町は下島の東海岸の中央当たりにあります。九州との間は130km以上もありますが、韓国の釜山との間は50km程で高速船で1時間半の距離です。釜山とのフェリーは、上(北)島の北端にある国際港から出ていますが、島内バスの国際港行きに乗ると、韓国からの観光客であふれていて、いまだに少々マナーの悪さが気になります。この近さが、朝鮮通信使の玄関となったのでしょう。

 
 
 
 
 朝鮮通信使歴史館は、厳原の市街地の西にそびえる有明山の麓にあり、表には朝鮮国通信使之碑と刻まれた石碑があります。館の内部は通信使の歴史が展示されていて、通信使の服に着替えて写真が撮れるコーナーもあったようです。歴史館の前をそのまま西へ行って突き当りが万松院で対馬藩藩主の宋家の菩提寺です。本堂横の少々きつい階段を上っていくと天然記念物の大杉が立っていて、それを通り過ぎたころに歴代藩主夫妻の墓石がずらりと並んでいます。万松院の手前を左に入ると旧金石城の庭園跡で、長く土砂に埋まっていたものが発掘調査で出現したそうです。この庭園跡のさらに東には金石城の楼門が復元されています。また北側には対馬博物館があって、対馬の歴史や自然が紹介されています。

 
 
 博物館の裏手の険しい道を上っていくと、清水山城の跡で朝鮮出兵の時に築かれたという山城で、三の丸、二の丸そして本丸跡という石垣も少しは残っていますが大半はがれきに近い状態の石の塊が残っています。二の丸までを往復しましたが、こんな険しいところに城を作らされたのは大変だったのではなかろうかと思います。万松院の方の「簡単に上れますよ」との言葉で上ることにしましたが、三の丸まででもかなりきつく、ガイドブックによると、ちょっとした登山の心構えだと書かれてました。ただ、上からは厳原の町並みや、その先の玄海灘まで見渡せる絶景が開けていました。

 
 
 朝鮮通信使をもてなしたのは、市街地の東側にある国分寺で会ったそうで、お寺そのものは明治の火事で焼失し、本堂などはその後再建されたものですが、焼け残った山門だけが江戸時代の面影を伝えています。また市街地を2km程南に行った久田川の河口には対馬藩お船江跡があります。江戸初期に作られた船の係留港と造船所を兼ねた跡で、4つの突堤の大部分は石組もしっかりと残されています。ずいぶんと大きなもので、ここを起点にして朝鮮半島まで船出をしていったのでしょうか。

 
 
 
 
 
 
 厳原の市街地には八幡神社などの神社も多く、石塀の続く武家屋敷通りなどもあります。市街地の北には、武家屋敷の門が2つ、家老家の長屋門と旧藩主の門から藩校の門になった旧日新館門が車の行きかう表通りに面して立っています。また、武家屋敷通りの近くには、樋口一葉の師匠であった半井桃水の生誕地とされる生家跡が地域コミュニティのセンターとなっていました。

 朝鮮通信使の船は玄界灘を渡るといっても50km程ですから、方向を見誤ったということはなかったでしょうが、それより昔の遣唐使船は沿岸伝いに航行する航路のほかに東シナ海を横切る場合もあったそうです。航路を誤ったわけではなく、荒らしなどの影響もあったのでしょうが、空海の船も寧波ではなくもっと南に到着ではなく漂着したそうです。現代の船はGPSなどで自分の位置がわかり加速度センサとジャイロを併用してさらに正確に目的港に入港できるのでしょうが、当時の船は北極星などの磁石や天測などで方向を定めて板のでしょうか。ただ、地球年齢で考えると、磁石の指す北磁極も北極星の位置も不変では無いのですが、人類の歴史程度の尺度ではほぼ不変の指標なのでしょう。

観光客であふれている長崎の新地中華街の奥にあるかつての色町の丸山地区では観光客は見かけませんが見どころがたくさんあります

2024-01-14 08:00:00 | 日本の町並み
 東京四宿の一つで日光街道の最初の宿場跡の千住には、色町をはじめ、いろんなゆかりのある場所がてんこ盛りでした。かつては江戸の場末だったのか小塚原の刑場跡まであります。この経常跡では、後に解体新書を執筆するきっかけとなった杉田玄白などの腑分け(解剖)の立ち合いがありました。江戸時代の西洋医学はオランダから長崎のみに入ってきたわけです、オランダが唯一の利権を得ていたのは、ずいぶんと黒い部分があったようですが、今回は入口の長崎の出島の山の手、それも千住宿の色町つながりで丸山界隈を紹介します。

 
 
 
 長崎は路面電車が健在で、その理由はいくら道路が渋滞していても軌道敷きには車を入れさせないからです。大都市で次々と路面電車が廃止されたのは、その逆で軌道敷きに車の乗り入れを認めて、電車が身動きできなくなったからです。長崎では、道路が混む時間でも、路面電車はすいすいと走るので、最も早くて便利で、地下に潜らなくて済む乗り物です。江戸時代にオランダからの入口となった出島は、この路面電車の新地中華街ですが、この電停を出島と反対側を中華街を右手に見ながら北東方向行くと丸山になります。銅座川沿いに行って路面電車の思案橋電停から南に延びる道とぶつかるところに丸山公園があります。公園の周りにはカステラの老舗の福砂屋本店があり見返り柳や変わった建物の交番が建っています。交番の横の路地を突き当たると料亭の花月で遊女屋の引田屋の名残です。

 
 
 
 
 花月の前の道を左右と鍵の手に曲がって上っていくと、梅園身代わり天満宮があり、境内には七力稲荷などの付属の神社や、天神さんにつきものの牛が寝そべっています。この牛の一つは撫で牛とと言われていて、さらに天神さんにつきものの梅にちなんで梅塚など狭いい境内にはいろいろな物が建っています。梅園身代わり天神はには逸話があり、ある日、賊に襲われた主人公が自邸に担ぎ込まれたが、傷一つなくて済んだのだが、自邸内の天神様が地を流し身代わりになっていたというものです。

 
 
 その先には小説の長崎ぶらぶら節の石碑もあり、上り切ったあたりに、中の茶屋があります。中の茶屋は、遊女屋の一つが江戸時代に建てた茶屋で、文化人のたまり場になっていたところだそうです。残念ながら江戸時代の建物は昭和46年に類焼で失われ、原罪の建物はその後の再建です。ただ、庭園は長崎品では寺院を除いては数少ない江戸時代駐機のものが残されています。

 
 
 坂を下っていくと寄合町で寄合町稲荷神社の玉泉神社があり、近くの祠には寄合町地蔵尊がひっそりと建っています。この地蔵尊は江戸時代に冤罪を晴らしてくれたというご利益のあるものだそうですが、なんとはなく地味な存在のようです。西に進むと江戸時代にオランダと並んで入国できた唐人の屋敷跡があり、北東に進むと中華街を経て、出発点の新地中華街の電停に戻ります。

 天満宮の境内には臥牛の像がつきものですが、そのいわれはいろいろあるようです。単純には菅原道真が丑年だったいうことですが、菅原道真を祭る北野天満宮は雷神を祭っていたいた場所で、後に道真と雷神が同一化されていきます。ヒンドゥー教の雷神にささげられていたのが白い牛であったことからという説もあります。道真はきわめて頭脳明晰な人物でしたが、その才能をねたんだ権力者の藤原氏に疎まれて失脚してしまいました。道真の場合は、権力者にとって都合が悪かったわけですが、日本ではすぐれた能力があっても、それに見合う待遇が受けられない悪平等がまかり十ているように思います。コンピュータをはじめ、先端分野の優れた技術者は、どんどん日本から逃げ出しかねない状況を憂います。

芭蕉が奥の細道のスタートポイントとした千住宿には芭蕉の旅立ちの碑だけでなく町中に説明パネルや石碑が建っています

2023-12-17 08:00:00 | 日本の町並み
 地名の由来の板橋はコンクリート橋に架け替えられていますが、中山道の宿場町であった雰囲気を残す町並みが板橋でした。江戸時代の各街道の最初の宿場を江戸四宿といって板橋はその一つでした。残りの三つは品川、内藤新宿そして千住でしたが、今回はその千住宿の名残を残すJR南千住から北千住あたりを紹介します。

 
 
 
 スタートは、JRの南千住駅になります。駅の西の南に延命寺の首切り地蔵が北側には回向院とがあり、この近くにあった小塚原刑場の処刑人を弔うためだそうです。回向院の境内には、杉田玄白などが処刑された人を解剖し、後の解体新書の翻訳に結びついたという記念碑が建てられています。この回向院は両国にもあって、さらにネズミ小僧の墓と言われるものもどちらにもあります。両国の墓石のかけらを持っていると「運が強くなる」都の俗信から長年削り続けられた、現在のものは二代目だとかですが、千住のものにはそのような形跡は見当たりませんでしたJRの南側を西に行くと浄閑寺で別名投げ込み寺と言われるのは、安政の大地震の時になくなった多くの遊女の遺体が投げ込まれた悲しい歴史があるからだそうです。これらのいわれなどは、それぞれの場所に解説のパネルがあって、なかなか便利です。

 
 
 
 
 
 JR線を北側に越えると左手が三ノ輪橋駅で、唯一残る都電の起点の一つです。路面で電車都と言っても、大部分が専用軌道でそのために残ったといわれますが、併用軌道の姿もごく一部の区間で残り、これだけでも貴重な存在かもしれません。三ノ輪橋の電停を越えて北に進むと、左手に古寺を証明したという松のある向春院、少し行くと境内に彰義隊の墓のある百観音圓通寺が続きます。さらに進むと小塚原富士という藤塚のある素戔嗚神社、やがて隅田川の南に至り千住大橋で川を渡りますが、その前後に芭蕉ゆかりの石碑やパネルがあります。

 
 
 
 
 
 千住大橋を渡ると北千住の町並みで、旧日光街道は表通りからそれて商店街になります。紹介しきれないような数の説明パネルや石碑が次々と現れます。やっちゃ場の地、旧本陣跡、絵馬屋、古民家の横山家と下村家、江戸時代から続く名倉医院などなど、

 
 
 
 
神社仏閣では足立区最大の狛犬が居る河原町稲荷神社、東大ではない赤門の勝専寺、千住七福神の大黒天が収まる氷川神社、長延寺の門外には目やみ地蔵が境内には魚籃観音堂や六地蔵、道祖神らしき像もあります。

 俳句は世界一短い詩と言われていて、17文字ということは数学の組み合わせの数から、そろそろ上限が来ているのではないかと疑問が浮かびます。しかし計算上は、俳句の総数は17の50乗で、およそ10の61乗ですから、日本人すべてが1秒に1句作ったとしても10の45乗年程かかる計算です。もちろんこの中には「あ」が17文字並ぶ句も含まれますが。短い詩であることから北海道大では「AI一茶くん」という俳句を作る人工知能が開発されています。作成された俳句は、専門家が見ても、りっぱな出来栄えとのことですが、俳句を作る元は過去の膨大な俳句のデータであって、目の前の景色や心情などではないのですから、形だけの美しさに過ぎないのではと思います。

板橋はコンクリート橋に架け替えられていますが、仲宿商店街の中にも中山道の宿場町の雰囲気が漂う板橋です

2023-12-03 08:00:00 | 日本の町並み
 中山道と日光例幣使街道の分岐点の宿場町の倉賀野には旧脇本陣の建物などの古い町並みが残っていました。中山道は日本橋を起点とする五街道の一つで、軽井沢あたりまでは現在の北陸新幹線沿いに伸びていましたが、都内では唯一の街道の宿場町が板橋宿になります。今回は、板橋の地名の元ととなった板橋が残る中板橋周辺を紹介します。

 
 古い町並みが残るのは都営地下鉄の板橋本町駅から板橋区役所駅の間の東側を地下鉄路線と平行に走る旧中山道沿いで、区役所よりは仲宿という商店街になっています。北側の環七通りから通りに入って200m程行くと縁切榎とそばに祠があります。男女の悪縁や断酒を願ってこの榎の樹皮を削ぎ落してひそかに飲ませれば効果抜群とのいわれがありますが、婚姻の時には縁起が悪いので、婚礼行列は避けて通るようにあり、皇女和宮の下向の際には迂回路まで作られたそうです。

 
 
 
 板橋の地名の由来となった板橋は現在も健在で、縁切り榎からさらに南に200mほど、石神井川に架かっていますが、板の橋ではなくコンクリートの橋になっています。

 
 
 ここから南が仲宿商店街で、基本的に商店が続きますが、ポツポツと板囲いの古民家が残っています。いくつかのお寺もあって、成田山の末寺となっている編照院は、江戸時代には板橋宿の駒つなぎの場所として使われたそうです。

 
 
 そして板橋区役所駅近くに土蔵造りのりっぱな商店が、周りの空気とは異なる雰囲気で存在感を示して建っています。大正時代に建てられた米屋で、現在はコメの販売を行われていませんが板五米店の名称でお弁当などの食料品が売られています。

 縁切りといえば、DVなどにより絶縁もその一つでしょう。いつも問題になるのが、加害者側からのアクセスを、いかに遮断するかで、被害者の所在を隠ぺいしたにもかかわらず、加害者に漏れてしまうということです。これは、現在のように情報が氾濫されいる社会では、むしろ遮断すること自体に無理がありそうです。SNSやLINEなどの情報や会員登録情報の名寄せでターゲットになる人物の住所などは簡単に分かってしまうそうです。また、システム管理者側からの情報漏洩も完全には止めることは不可能で、どのような組織にも数パーセントの不良分子が存在するという分析もあり、内部漏洩もありえます。このようなネット社会って、本当に幸せなんでしょうか。

中山道と例幣使街道の分岐点の宿場町だった倉賀野は日本に2台しか導入されなかった交換機が置かれた町でもありました

2023-11-19 08:00:00 | 日本の町並み
 かつては白砂青松の保養地だったようで著名人の別荘が多く建ったのが稲毛海岸でした。電電公社の無線局も、人口が少なくて雑音の発生が少ない地ということで稲毛近くに建てられ、現在のようなひきょになったのでしょう。無線局は、海に浮かぶ船との通信が目的ですが、固定電話の接続を司るのが交換機です。関東大震災を機に自動交換機が導入されたのですが、2024年から順次インターネットに切り替わり専用の電話交換機は姿を消してしまいます。ステップ・バイ・スッテップ交換機から最新のディジタル交換機までの歴史の中に中に、たったの2台しか設置されなかった交換機がケッログ製クロスバ交換機でした。2台ともに群馬県に設置されましたが、今回はそのうちの1台が設置された倉賀野の町を紹介します。

 現在の電話の交換機は、ダイヤルされた数字の全部を解析して、どの回線につなぐかを判断しており、その走りがクロスバ交換機でした。当時の技術陣はクロスバ交換機というふれ込みを聞いて勇んで導入しましたが、この交換機はそれまでのステップ・バイ・スッテップ交換機の回転スイッチをクロスバ・スイッチに置き換えただけのもの。その後に開発されたクロスバ交換機とは似ても似つかぬ装置で、融通性や発展性の無いしろもので、2台だけが継子として残っただけでした。

 
 
 さて倉賀野は、群馬県の南部の高崎市の一部で、上野からJR高崎線で行くと高崎駅の一つ手前の駅が倉賀野の駅です。旧中山道の宿場町で日光例幣使街道の分岐点として、現在も旧脇本陣の家が残っています。古い町並みは、高崎線の南側に平行に走る旧中山道沿いに伸びており、街道に出る手前には九品寺があります。九品寺は15世紀創建で、創建当時の領主の倉賀野家の菩提寺だったそうです。また町並みの向こう街道の南には、古い町並みよりも古い数多くの古墳も残っています。

 
 
 
旧脇本陣を含めて、町家の多くは土蔵造りに格子が連なる平入りで、道路からは茶色の世界です。ところが、この茶色の世界の中に、青や白の下見板張りのモダンな洋館も建っていて、面白いたい肥を作っています。

 
 
 
 
 古い町家のほかにちょっと違ったポイントをいくつか紹介しましょう。まずは目直し薬師です。民家の庭のようなところにある石仏で、眼病にご利益があるそうですが、石仏の前にある「め」の字を八つも並べた石碑が面白しろかった。同じように馬頭観音の石仏も、道路わきにぽ通と置かれていました。もう一つは、これも道路わきに無造作に置かれている庚申塔と道祖神で、安曇野の田んぼ路でよく見かけますが、これが町中に置かれています。同じ石づくりの常夜灯は、ちょっとした広場の中にありました。

 2024年からの電話網のIP網への移行では、またぞろ詐欺商法が横行しそうです。網はインターネットに移行しますが、電話機はそのまま使えます。インチキ商法では、電話がインターネットに移行するから、これまでの電話機はつながらなくなると言って、新しい電話機をバカ高い値段で押し売りしてくるものです。決して、このような悪徳商法に乗らないよう気を付けてほしいものです。これまでも、IP電話として、電話もパソコンもつながるサービスがありますが、各家庭に置かれたアダプタで電話機のインタフェースをIP手順に変換しています。2024年の移行では、このアダプタが電話局にあると考えればよく、変わるのは目に見えない場所だけで、固定電話は、何もいじらなくても、そのまま使い続けられます。

現在の稲毛からは想像できませんが、多くの別荘などが建てられたということは白砂青松ののどかな場所だったのでしょう

2023-11-05 08:00:00 | 日本の町並み
 六甲山の伏流水が宮水として湧出する場所に五つもの酒造りの里が生まれたのが灘五郷でした。日本酒はコメを原料にしますが、これに水を加えて発酵させるので、加える水は重要だったわけです。一方、リンゴやブドウを原料とする果実酒は水は加えないで発酵させるので、水のよい場所は必須ではなく、よいリンゴやブドウが実る場所が醸造所を決めるキーになります。我が国のワインの産地は甲州の勝沼が有名ですが、牛久にも良質なワインの産地がり、牛久シャトーと呼ばれる素敵な建物もあります。前置きが長くなりましたが牛久シャトーは、このブログで紹介済みですので、今回はこの牛久シャトーを作った神谷伝兵衛の別荘があった稲毛周辺を紹介します。

 
 
 
 
 
 
 今回紹介するエリアは、JR総武線の稲毛から新検見川にかけての海岸より、行政区域としては千葉市の稲毛区と花見川区の一部ということになります。旧神谷伝兵衛別荘はJR稲下駅を下車して南に坂を下り千葉街道に出たら右折して200mほど、街道に面した高台にあり、現在は千葉市民ギャラリーとして公開されています。建物は大正年間に建てられ当時としては珍しかった鉄筋コンクリート製の洋館で国の登録文化財になっています。1階部分は洋室で、しゃれたシャンデリアやピロティーが素敵です。そして2階に上がると、ぐっと趣が変わって純和風の部屋が連なります。当時に建てられた洋館の中に和室を見かけることは多く、日本人として畳の部屋はくつろぎの世界だったん尾かもしれません。

 
 
 かつての稲毛は白砂青松だったのか、神谷伝兵衛の別荘だけでなく、西に5分ほどの場所にはラストエンペラーと知られる溥儀の弟である溥傑が新婚時代を過ごした家が千葉市ゆかりの家として公開されています。こちらのほうは、庭園が美しい純然たる日本家屋です。この家屋も、元は東京の水飴商静稀氏の別荘として建てられたものだそうです。

 
 
 ゆかりの家の手前には9世紀に創建されたという稲毛浅間神社ありますが、千葉街道の南に建つ一の鳥居はかつては海中に建っていたそうで、街道より南は海だったということになります。この海だったであろう処にある稲毛公園には、民間航空発祥の地があり、T字方の記念碑が建っています。そしてそのそばには、戦後まもなく川崎製鉄千葉で資材運搬に使われた蒸気機関車も展示されています。

 
 公園の西には千葉トヨペット本社の建物がありますが、とても自動車会社の建物とは思えません。それもそのはずで、明治後期に内幸町に建てられた旧日本勧業銀行の本社ビルの建物だからです。大正年間からあちこちに移築転用され昭和40年に現在地で千葉トヨペット本社ビルとして使われている、国の登録文化財です。

 
 
 
 そこから検見川方向へは、千葉市内とは思えないのどかな田舎道もあって、明治期に千寿寺と南蔵院都が合併した千蔵院やりっぱな門構えの農家が散在しています。やがて低層の戸建て住宅がたくさん立ち並ぶ台地のような地域を通り抜けることになりますが、その住宅街の中にぽっかりと草ぼうぼうの荒れ地があります。よく見ると、その雑草の中に廃墟状態のコンクリートの建物があって、これはかつての検見川送信所なのです。建物はかなり劣化していますが、大正末期のモダニズム建築で、策に囲まれて近寄れないのが残念です。検見川送信所は対外国との無線交信のために当時の逓信省が建てたものですが、戦後電電公社の管轄となった後、昭和54年に業務を終了した歴史を持っています。廃止から40年以上もなりますが、建物は千葉市による文化財調査などが行われているようですが、公開もされず廃墟状態なのは行政の怠慢のように思えます。

 民間工期発祥の地は、1912年にこの地にわが国で初めて練習飛行場が開設された場所ですが、ライト兄弟が初めてエンジン付きの飛行機を飛ばしてわずか9年後でした。当時の飛行機は主要区が二枚ある複葉機で、特にライトの飛行機は水平尾翼が前方にある、先尾翼軽視で、ライとは二枚の主翼の下のほうに腹ばいになり、飛行機をカーブさせるエルロンを持たない構造だったので、主翼をねじって曲がっていたのだそうです。現在の飛行機には主翼にエルロンと呼ばれ上下する小翼がついていて、車のハンドルのような操縦かんを左右に回すことで、飛行機を左右に傾けて曲がります。しかし、エアバス社の作る旅客機にはこの操縦かんはなく、サイドスティックと呼ばれる握り棒のようなものになり、これを前後左右に傾けて操縦します。この動きをコンピュータが読み取って、エルロンを動かすので、飛行機の操縦は名人芸ではなく安定に重きを置くようになりました。

灘五郷の魚崎郷と御影郷は酒蔵会社の記念館が多く、見学できる内容も多くて、楽しみいっぱいで、お酒をたしなむ方はもっと楽しいかもしれません

2023-10-22 08:00:00 | 日本の町並み
 宮水は西宮の水が語源ですが、灘五郷と呼ばれる地域は東西に広がっていて、西宮郷は東から二番目で、いわゆる灘の生一本と呼ばれるのは西にある残りの三つの郷が中心のように思います。今回はこれらの中から魚崎郷と御影郷を中心に紹介します。

 魚崎郷と御影郷は阪神電車の魚崎駅と新在家駅の南に広がる地域で、西宮郷は10の酒造メーカがありましたが、魚崎郷には4つ、御影郷には8つの酒屋さんがひしめいています。西宮郷と同じように、酒蔵の間に町並みがあるといった監事がします。西宮郷では酒蔵の中を見学できる酒屋はあまりなかったのですが、こちらには酒蔵が見学できたり資料を見ることができる酒蔵が8か所もあって、それも無料です。試飲コーナーも設けられているところがあり、こちらは有料のようですが、下戸の筆者には縁遠い存在です。西宮郷と同様にレストランがある処も多くあって、予約が取り辛いとのことでした。

 
 
 
 
 
 
 
 
 印象に残った酒蔵を紹介しましょう。魚崎駅の真南に位置する桜正宗は和建築の記念館でレストランやショップなどが中心です。桜政宗を西に住吉川を越えたところにあるのが菊正宗の記念館です。こちらも堂々たる伝統建築の記念館で、酒造りの様子を展示で学べるようになっています。2階には酒器のコレクションの展示もあって、 多くの時間を過ごせる空間です。菊正宗は直属の桶の製造工場を西隣に持っていて、事前予約が必要ですが見学可能だそうです。この菊正宗の本社ビルは記念館から西へ10分程で趣のあるレトロな洋館ですが、その入り口付近に嘉納治五郎生誕地の石碑があります。菊正宗や白鶴酒造の経営者である嘉納家とは親戚関係なのだそうです。

 
 
 
 
 嘉納家のもう一つの酒蔵である白鶴酒造の記念館は菊正宗の記念館と本社の間にあります。こちらの資料館も盛りだくさんで、昔の酒造りの様子を再現した展示がされていて、こちらは作業の様子がわかるように人形まで置かれています。麴室ものぞけるようになっていました。学生時代までを神戸で育った筆者としては、山を崩して海を埋め立てることしかしない文化的に貧弱な神戸市で、数少ない貴重な私立の美術館として白鶴美術館は記憶に残っています。

 
 
 
 
 
 菊正宗本社から北西に行くと灘吾郷酒蔵組合の看板のある建物があり、ショップやレストランがあるようですが、シャッターが降りていました、ただ建物の前には灘五郷のこもかぶりがずらりと積まれていました。さらに西に進み石や側の土手には昔の酒造りに使った井戸が再現されており、川を越えると福寿の酒心館があり、本格手にに食事のとれる料亭として有名です。国道を北に越えると処女塚古墳で万葉集にも登場する悲恋伝説の地です。そろそろ新西家駅が近くなってきましたが、最後は高嶋酒類食品の記念館ですが、甲南漬を作っている会社といったほうがなじみがあるかもしれません。甲南漬は奈良漬の一種ですが、灘五郷を控えるために原料となる酒かすが大量に手に入る地の利を生かした名産だったわけです。こうべ甲南武庫の郷と呼ばれるショップとレストランを兼ねた建物があります。これは旧高嶋家の住宅で登録文化財になっていて、レトロな洋館の中に和室もあってなかなか趣のある建物です。

 菊正宗の樽工場は見学できなかったのですが、近くにいらっしゃった従業員の方と雑談ができました。お酒の香りを左右する樽は重要ですが、吉野杉を使って樽までを自家製造する酒造メーカは珍しいとのことです。日本の樽は台形に面取りをした板を縦の並べて、それを竹のタガで締め付けて作りますが、西洋流は板の接する木口に凹凸の溝があって、これがかみ合うようになっているそうです。たしかに、こうすれば丈夫ですが、そのような小細工をしなくても、大きな樽を形作る日本の職人技術はすごいと思います。酒造りは、温度や湿度などをコンピュータで管理しているようですが、灘の生一本の味を決めるのは職人さんの知恵ではないかと思います。

灘五郷の最も東にある西宮郷のある阪神西宮駅の南側は、酒造工場の中に民家がある感じがする酒屋さんだらけの町です

2023-10-08 08:00:00 | 日本の町並み
 1970年開催の万博会場となった場所は、当時の大阪市長の先見性ゆえに再開発という名の自然破壊を免れて緑豊かな万博記念公園となっています。大阪万博は日本最初の万国博覧会でした、日本が最初に参加した万国博覧会は1878年に開かれた博覧会でパリでの開催3回目でした。ちなみに、エッフェル塔は、その11年後に開かれたパリ4回目の万博でした。日本の最初に参加したパリ万博では日本村が作られ、その中で日本酒が展示されたそうです。今回は、その時に展示された日本酒の銘柄の白鹿酒造がある灘五郷の一つの西宮郷周辺を紹介します。

 
 
 西宮郷は、阪神電鉄の西ノ宮駅から南に海に向かって広がっています。パリ万博に出展の白鹿酒造は西寄りで、十日えびす福男で有名な西宮神社の海より1kmほどにあります。東西に走る道路の臨港線を挟んで、北側に白鹿クラシックというレストランと博物館の酒造館、南には博物館の記念館と旧辰馬喜十郎邸があります。旧辰馬邸は明治中期に建てられた疑似洋館で、神戸の居留地に建てられた洋館に似せて作られたそうで県指定文化財に指定されています。白鹿酒造は典型的な同族経営の会社で、現在も状況は変わりません。それに一族から西宮市長を二人も輩出し、西宮一帯を支配しているように見えます。

 
 
 白鹿クラシックを北に行くと、同じ白の付く酒造会社の白鷹の緑水苑があります。なかなか趣のあるレストランのようです。

 
 
 白鷹の工場はさらに北側にあり、通り越してちょっと東に入ると宮水発祥の地で石碑が建っています。現役の宮水の井戸群は、1ブロック東の宮水庭園で、白鹿、大関それに日本盛りの井戸があります。

 
 
 その日本盛は、宮水庭園の南側の通りを東に行き用海筋を南に1ブロック行って名前も酒造通りを東に150m程進み、通りの北側に工場とレンガ館があります。レンガ館は、なかなか趣があって内部には売店やレストランがあります。なぜか、吹きガラスの工房もあって、体験プログラムもあるようです。

 
 
 元の用海筋に戻って阪神西宮駅は北へ1km程ですが、線路を北側に通り越して海清寺に寄り道します。14世紀に創建の禅寺で、境内には県指定天然記念物の樹高35m程もある大楠がそびえています。西隣には西宮市役所、北側には阪神国道、南には阪神電車が走るという喧噪な環境ですが、なぜか境内は静まり返った別世界の様子です。

 宮水は西宮の水が転化したもので、宮水発祥の地埜付近に湧出する酒造りに適した塩分を少し含む硬水です。カルシュウムやカリウムなどのミネラル分が麹や酵母の栄養となって発効を促進し、アルコール度数のやや高い辛口の男酒を生むとされています。一方、伏見や広島の西条などではミネラル分の少ない軟水でお酒が作られ、発酵が穏やかで飲み口の柔らかい女酒を生むといわれています。この軟水から極限まで不純物を取り除いたものが超純水と呼ばれるもので、ITを支える半導体素材のシリコンウェハの洗浄などで欠かすことのできない存在です。ところで、メートル法では4℃の純水1リットルの質量を1kgと定義しました。しかし、よくよく調べてみると、純水といえども微妙にばらつきがあり、パリにあるキログラム原器の質量を1kgとしました。しかしこれとても不変ではなく、最近になってプランクの定数を使った定義に改められました。

53年で緑豊かな原生林のような森林になった大阪万博の跡地の記念公園は太陽の塔が守る大阪の宝です

2023-09-24 08:00:00 | 日本の町並み
 柏原と表記する地名の中でもやや変わった読み方をするのが丹波市の柏原(かいばら)でした。JR福知山線の柏原駅はローカルな駅としてはしゃれたちゅくりで、それもそのはず、大阪で開かれた花博会場で使われた駅舎を転用したものでした。日本で最初にの万博は1970年に大阪で開催された大阪万博で、その前年にアポロが持ち帰った月の石がアメリカ館の目玉で2時間も3時間も行列したものでした。この万博の会場は再開発の計画もありましたが、当時の中馬大阪市長の主張が通って森林公園となっています。今回は、万博会場の面影がすっかりなくなって、原生林のようなたたずまいになった万博記念公園を紹介します。

 
 
 
 
 大阪万博は大阪府の吹田市の郊外で開催され、月の石だけでなく、岡本太郎の太陽の塔が話題となりました。現在も、公園の入り口の緑の中に立つ姿は、万博期間中のパビリオンの中に立つ姿よりも存在感があるように思います。日本庭園などや閉会後に建てられた民族博物館の建物以外の施設はすべて撤去され、森林と草原になっています。53年という月日は森林を原生林のような姿に変えていて、森の中に作られたキャノピー・ウォークにある展望台から眺めると、うっそうとした森が広がっています。森の中の散歩道のとこrどころに、ここにはXXパビリオンが建っていた、と表示されていますが、53年前の状況はとても思い出せません。

 
 
 
 
 森林のところどころが開けていて草原や池になっています。ボール遊びができたかどうjか忘れましたが、ピックニック二は好適な場所です。大阪の繁華街から1時間ほどで、このような自然の遊び場があるのは地域の宝物のように思います。神宮外苑や日比谷公園など、何でもかんでも、壊して再開発をする日本の文化に逆らった中馬さんの先見性を尊敬します。草原に一部はお花畑になっていて、訪問した時には一面にポピーとネモフィラが咲き乱れていました。花畑のところどころに木がぽつんと植えられていて、北海道の美瑛の景色を思い出させる空の高さでした。

 「人類の進歩と調和」をテーマとした大阪万博ではテーマが掲げるように展示されその後実現普及した数多くの技術があります。携帯電話、テレビ電話、LAN、電波時計、電気自動車などきりがありません。その後の急激なコンピュータの進歩で、コンピュータ囲碁やコンピュータ・ハンドゲームなどを通り越して当時は想像もできなかった様々な分野でコンピュータ制御が普及しました。大阪では、再び万博を開こうとしてますが、53年前の大阪万博の時のような必然性は全く感じられず、万博で利益を売る一部の団体と政治主導でごり押しで物事が進んでいるように思います。

かいばら(柏原)という変わった読み方の旧城下町にレトロモダンな洋館も似合います

2023-09-10 08:00:00 | 日本の町並み
 大阪の市街地からさほど遠くない丘陵地帯に時間の止まったような街並みが残っているのが柏原市の太平寺地区でした。太平寺のある柏原は
かしわら」と読みますが、なんと地名として6種類の読み方が存在します。「かしわら」以外に「かしはら」かいばら」「かしわばら」「かせばら」「かしわばる」で、このうち3種類の読み方の駅名が存在します。今回は、これらの柏原の中から福知山線に駅名が存在する兵庫県丹波市の柏原(かいばら)築を紹介します。

 柏原駅は福知山線の北部、篠山口駅と福知山駅との間にあります。2004年までは氷上郡の町でしたが、合併によって丹波市の一部になりました。この丹波市の誕生をきっかけに、本ブログで7月に紹介した篠山市の名称変更のなりました。人口1万人程度ですが、陣屋跡がある柏原藩の城下町として落ち着いた街並みを残す町です。

 
 
 町の入り口となる柏原駅は1990年に大阪で開催された鶴見万博の会場にあった山の駅を移設したもので、田舎の駅にには珍しいしゃれた簡易です。駅の近くには、やぐら公園があって、太鼓櫓の模型があります。太鼓櫓は陣屋の付属として建てられ、時刻を知らせたり、望楼としての役割があったそうで、やぐら自体は駅から200mほど北にあります。やぐら公園から北に柏原八幡神社に延びる篠山街道の周辺が町の中心地で、古民家を利用した店舗も残ります。

 
 
 
 八幡神社は7世紀に創建という神社で本殿と拝殿は重文指定です。重文には指定されていませんが神社には珍しい三重塔や鐘楼もありますが、明治の廃仏毀釈の嵐をかろうじてまぬかれた建物だそうです。八幡神社に上る手前にあるのが木の根橋で大きな欅の木の根が小川を渡って橋の形となったものです。子供の危機を救うために根が伸びたという民話が残っているそうです。この大欅の向こうにあるのが旧丹波市柏原支所庁舎で90年ほど前の昭和初期に建てられたモダニズム建築で大木といい対比をしています。

 
 
 旧陣屋跡は、篠山街道より200mほど東の南北の通りに面する小学校の敷地にあります。残っている遺構は長屋門のみで、御殿は明治期に解体されたものを縮小再建したものです。陣屋跡近くには、「雪の朝 二の字二にの字の 下駄の跡」の句で有名な田捨女の像があるはずなのですが、工事中だったのか見損ねました。陣屋跡の北隣には、旧氷上郡各町村組合立高等小学校の遺構があります。こちらは旧支庁者の建物予知古く明治後期の木造建築で、下見板張りのモダンな建物です。

 今ではスマホでも音声認識も音声合成も当たり前でできるようになりましたが、50年以上まえには、多少は進んでいた音声合成でも、注意して聞かないと何を言ってるのかよくわからないといったレベルでした。コンピュータ内に日本語の発音の辞書を持っていましたが、当時の技術ではメモリ容量も処理能力も3~5桁ほど違ったので難しかったのでしょう。柏原のように日本語では同じ漢字で読みの違うものも多いので英語よりも難しかったかもしれません。

 スマホを用いた自動翻訳のアプリは旅行などでは重宝します。ただ、ベトナム語などメジャーではない言語では、とんでもない訳文が出ていてびっくりします。日本語では柏原のように同じ漢字で読みの違うものも多いので英語よりも発音が難しいのかもしれません。ベテランの通訳の方から聞いた話ですが、代名詞の多い会話では、その代名詞を実際の名詞に置き換えて通訳しないと話が伝わらないので、事前にバックグラウンドを調べておくとのことでした。自動翻訳アプリにも、生成AI機能を組み合わせる必要があるのかもしれません。