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世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

柏原の太平寺地区には生駒山系の扇状地に車がやっと通れる細い路地に沿って白壁の土蔵造りの古民家が軒を連ねています

2023-08-27 08:00:00 | 日本の町並み
 長谷寺は山の南斜面を這い上がっるようにお寺の伽藍が建っていました。長谷寺の前に紹介した室生寺も傾斜はなだらかですが室生川に向けてのなだらかな南斜面に伽藍が立ち並んでいます。一方、住宅地も横浜や神戸などの山の手は傾斜地に住宅街が伸びっています。斜面の場合には南側に家が建っても日陰になりにくいというメリットがあるかもしれませんが、日常生活では坂の上り下りで大変かと思います。坂の町の住宅街は数多くありますが、土蔵造りの古民家が軒を連ねるところはさほど多くはないかと思います。今回は、大阪から室生寺や長谷寺に向かう近鉄大阪線のずっと大阪よりの安堂駅からほど近い柏原(かしわら)市の太平寺地区を紹介します。

 
 
 
 
 太平寺地区は、生駒山系から大和川に向かって伸びた扇状地で、地名の由来は続日本紀に記載のあるお寺の子院の一つである太平寺があったため推定されています。江戸時代には大和川の右岸にあたる柏原や八尾は河内木綿の産地としての豪農や、大和川を使って南河内の農産物を大阪に運んだ豪商などの家が立ち並んだものと言われています。また、明治期以降は、傾斜地を利用したブドウの栽培で潤ったようです。ただ、東高野街道や鉄道は、太平寺地区の西側を南北に貫いており、太平寺地区は近代の交通のルートから外れてしまったため、古い町並みが冷凍保存されて残されたのかもしれません。地区内の道路は軽自動車がやっと通れ、対向車とはすれ違えないほど狭く、この不便さも町並みが残る要因の一つだったかもしれません。

 
 
 
 
 
 冷凍保存といっても、古民家群は真新しく見え、常に手入れが行われていることを感じさせます。また、他ではよく見かける、古民家のそばに景観を損ねる家や商店を見かけないのも太平寺地区の良さかもしれません。とにかく、例外なく土蔵と羽目板張りの民家が続きます。漆喰部分は城が目立ちますが、黒漆喰で塗られた民家もあって、重々しさを感じます。高知県で見かけた水切り瓦と思しきつくりのある民家も見かけました。大阪の市街地の南東10km、近鉄で40分足らずのところに、こんな町並みが残っていたというの奇跡みたいです。

 この地区で育ったブドウを原料に大正時代にワインの醸造が始まり、現存のワイナリーとしては西日本最古だそうです。町内にあるワインの貯蔵庫は登録文化財にも指定されています。ワインというと、熟成が必要なお酒ですが、この熟成によって化学的にどのような変化が起こるのか、これまでいろいろな研究が行われ、諸説があるようです。一説には水の分子構造が変化して、アルコールの刺激がまろやかに鳴門とのことで、通常は熟成をしない日本酒では、熟成しなくても美味しいのは原料の水自体が「美味しい水」だからかもしれません。熟成には温度や湿度など貯蔵環境がい大きく影響し、ワインの愛好家によってはコンピュータ管理をした地下貯蔵庫を持っている方もいらっしゃるようですね。

長谷寺の登廊はおよそ400段もの階段があってきついのですが、登廊を囲む牡丹の花に見とれているといつの間にか本堂にたどりつけます

2023-08-13 08:00:00 | 日本の町並み
 前回は女人高野の室生寺を紹介しました。室生寺は境内いっぱいに咲くシャクナゲが見事ですが、同じ時期にボタンが咲き乱れるのが長谷寺です。同じ近鉄線の沿線で花の時期が似ているため、2つのお寺を梯子をする観光客も多く、花の時期には二つのお寺を直接結ぶ臨時バスも運行されます。今回はその長谷寺を紹介します。

 
 長谷寺は大阪難波から近鉄戦で1時間ほど、明日香村の北辺をかすめて少し東に走った長谷寺駅が起点になります。近鉄線は吉隠川の南にある山塊の北斜面を横切るように走っていて、長谷寺の本堂は川向こうの初瀬山の中腹まで上ったところにあります。したがって、電車でお参りをすると、往復ともに坂を上らなければならないことになります。バス道から清滝川までありて、また急な坂道を登らなければならない神護寺ほどではありませんが。

 
 
 麓の仁王門から本堂までの上りの登廊はおよそ400段できついのですが、この登廊の周りに植えられているのがボタンで、花の季節には花を愛でながら上っていくのは、上りのきつさを忘れさせます。この登廊は趣があり重文指定ですが火災で焼失後の大正時代に再建されたものです。

 
 登廊を登りきったところにある本堂も奈良時代の創建後に度々火災にあっていますが、現在のものは江戸時代の再建で国宝指定です。清水寺や書写山円教寺と童謡の懸崖造りで、山の中腹のきゃだいな建物は存在感があります。懸崖状態の部分は礼堂で背後に本堂があり10mを越える巨大な十一面観音立像が安置されています。これだけ巨大な観音像なので礼堂唐は腰のあたりから上半身しか拝むことができません。春と秋には特別拝観と言って足元まで入堂でき足に触れることができますが、足元からは引きが足らなくて像の全容がつかめません。ただ、その巨大さだけは実感できる貴重な空間です。

 
 本堂からの戻りは、本堂の裏に出て本長谷寺から五重塔を経由することができます。戦後に建てられた初の五重塔で、檜皮葺の和様建築で、緑の木立の中の朱色の塔はそれなりに美しいのですが軒の出が小さく塔心が太く感じて、室生寺の軽やかな五重塔とは比べるべきもありません。


 長谷寺の十一面観音立像は重文ですが、前回紹介の室生寺の十一面観音は国宝指定で、国宝の十一面観音は室生寺を含めて全国でたったの7体しかありません。観音は種々に姿を変えて人々を救いにやってくると言われ、36通りとも6通りともいわれ。これらを変化観音と呼ばれており、十一面観音もその一つです。これらの十一面観音は、名前の通り頭上に十一面の仏面を載せていますが、それぞれに顔立ちが違っています。これは、人々を救うための役割の違いとされています。これらは役割を特化したマルチプロッセッサーでできたコンピュータみたいなものでしょうか。

宝物館が完成したために、これまでのように国宝仏が一堂に会する光景が見られなくなった室生寺ですが五重塔の可憐さは変わりません

2023-07-30 08:00:00 | 日本の町並み
 京田辺には廃仏毀釈のあらしで神宮寺にあった十一面観音が近くのお寺に引き取られ重文に指定されているのは不幸中の幸いでした。寿宝自の十一面観音像は重文ですが、国宝指定の十一面観音像は全部で7体しかありません。そのうちの聖林寺の十一面も、廃仏毀釈の時に近くの三輪神社の神宮寺から移されたものです。今回は幸運にも廃物希釈のあらしには合わず、本来のお寺で安置されている国宝の十一面観音像があるお寺の中から女人高野といわれる室生寺を紹介します。

 室生寺は、奈良県の東の端の山奥、近鉄の室生口大野から7km、バスで15分ほどと短時間ですが、このバスが1時間に1本ほどしかありません。筆者が学生の頃は、バスだけでなく室生口大野に停車する電車も1時間に1本ほどでした。これだけ不便な思いをしなくてはなりませんが、その不便さを打ち消してしまう魅力的なお寺の一つです。建物は国宝3棟、重文2棟、仏像は国宝3体、重文6体、そのほかに国宝1、重文4と小規模の博物館並みです。釈迦如来坐像を除いて、2019年の春までは仏像の大部分、十一面観音も金堂の須弥壇の上に横一列に並んでいました。2020年に宝物殿ができて、金堂にあった十一面観音と地蔵菩薩それに十二神将の半分が移されて泣き別れです。もともと金堂には数多くの仏像があったわけではないらしいのですが、圧倒されるようなボリュームはもう見られない(移転後には再訪していません)のは残念です。

 
 
 国宝の建物の中では五重塔が秀逸です。法隆寺の五重塔に次いで二番目に古い8世紀の建立で、屋外に建つ塔としては最小の建物です。ちなみに最小の五重塔は海龍王寺のものですが模型のように屋内に置かれていて、こちらも国宝です。室生寺の五重塔は、屋根が檜皮葺で軒の出が深く、各層の屋根の大きさは下層と最上層とであまり変わりませんが、塔心は上層部に行くにしたがって細くなっています。これらの要素が塔を美しく見せていると思います。ところが、この塔にもご難があって、1998年の台風でそばのスギが倒れて、塔を直撃、西北の側の各層の屋根と軒が折れてしまいました。2年をかけて修理の折、塔に使われている材木の年代測定が行われ、8世紀の建立が鵜あら付けされたのだそうです。

 
 
 
 
 
 室生寺は室生川を朱塗りの橋で渡った後は、背後の山の南面の傾斜地の緑の中にへばりつくように建っています。建物の周りは緑の木立が茂り、階段を上っていくと緑の中に建物が現れ来る期待感があります。五重塔も緑の中に建っているので、美しさが増幅されているかもしれません。ただ、そのために倒木による被害を被ることになったのですが。この緑の中にゴールデンウィークの頃にはシャクナゲのピンク色が彩営を添えます。ご空の党の屋根裏は朱に塗られて緑に映えますが、シャクナゲの花も負けじと景色を盛り立てています。

 仏像などの文化財を安全に保存するために宝物館や収蔵庫が作られ、コンピュータ管理で温度も湿度も収容されている仏像に最適なようにコントロールされています。たしかに、これらの施設は文化財を安全に次の世代に引き継ぐのに必要だとは思いますが、何とはなしに味気ない印象を受けます。博物館や収蔵庫での鑑賞のメリットは、通常は正面からしか拝めない仏像をvひがった角度からも見られる点ですが、信仰の対象なのか美術品なのか、議論の割れるところかもしれません。それに、コンピュータ・コントロールの環境は、ほんとに正解なのかという疑問もあり、自然空調の正倉院は保存性の良さの証明に1300年かかってるんですね。

奈良と京都を結ぶ近鉄京都線の沿線には途中下車をしても損をしない町並みや自然の風景が広がっています

2023-07-16 08:00:00 | 日本の町並み
 市の名前を市町の辞職までのごたごたを経て篠山市から丹波篠山市に変更したのが、兵庫県の山奥にあり立杭焼と丹波杜氏のふるさとでした。丹波篠山市の場合は、これまで使っていた市の名称を途中で変更した例ですが、町から市になるときに、旧来の町名を市の名称にしたのち、即日に他の名称に変更した市がかなりあるようです。1997年の市制施行日に旧町名の田辺から京田辺となった京田辺市の、今回はその南部、近鉄京都線の近鉄宮津を駅から興戸までの町並や丘陵地帯を紹介します。

 近鉄京都線は京都と奈良を結ぶ路線のためか、国宝の十一面j観音の観音寺や一休禅師ゆかりの酬恩庵などのお寺も多く、また狛田や祝園には古民家が数多く残されています。観光客は奈良から京都に移動する通り道として利用しますが、途中下車をする人は少な伊野が残念で、時間があれば訪れて損のない地域と思います。今回紹介する地域は、やや北よりで、近鉄が木津川を渡るちょっと手前にある京田辺市の南部になります。

 
 
 
 
 スタートの近鉄宮津駅を降りて近鉄線とJR線の効果を西に抜けると、白壁と大きな屋根の民家が多数見えてきます。商家ではなく農家ではないかと思いますが、なかなかの迫力です。

 
 
 通り過ぎて右折市北にっや進むと左手の丘の上に6世紀に創建されたという佐牙神社があります。16世紀に再建された本殿は一間社春日造と呼ばれ2つの社殿を連結したような形をしていて重文指定です。参道には明治の廃仏毀釈で廃寺となった神宮寺の恵日寺跡の石碑が寂しくたっていました。

 
 
 この寺にあった十一面観音が移されたのが、近鉄線の三山木駅を越えて東に行った寿宝寺で、門のそばには古代交通の要であった山本駅跡の石碑も建っています。やはり、この辺りは京都と奈良を結ぶ官道が通る交通の要所であったわけです。

 
 
 
 東に木津川まで続く田園地帯を北東に横切っていくと、丘陵地帯があって、斜面には茶畑が広がっています。宇治にも近いこの辺りはお茶の生産が盛んなようで、直射日光をさえぎる黒い覆いも見かけました。この丘陵には4~6世紀に作られた多くの古墳があり、飯岡古墳群と呼ばれているようです。ゴロゴロ山古墳は継体天皇の王子のもの、薬師山古墳は椀子王の王子の物と言われており、ほかにもいくつかの古墳が残されていますが、立札がなければ単なる丘といった感じです。丘の麓にはかつての井戸の跡もあり、飯岡山の伏流水なのでしょうか。この辺りは、瀬戸内気候の影響で雨量が少ないのでしょうか播州平野でよく見かけるため池も景色に変化を与えています。

 廃仏毀釈は、数多くの貴重な文化財を廃棄してしまったようです。近くの寺に引っ越しをして難を逃れた仏像もいくつかあって、有名なとこrでは聖林寺の国宝十一面観音立像があります。興福寺の五重塔も売りに出されて、あわや焼かれて金具だけになりそうだったそうです。明治という文化の革命期にこれまでの価値観がひっくり返って、新しい価値観に置き換えられた結果ですが、価値観の転換というのは、文化面だけかと思うと、理科系の分野でもありそうで、価値観というより流行りすたりということなのでしょうか。かつて、あれほど流行ったファジーを取り入れた電化製品ですが、今やファジーという言葉すら死語になり、知る人も少なくなっているように思います。AIもいつまでもつでしょうか。

篠山の町には城の西に武家屋敷と東と北に町人の古民家の家並が残りますが、圧倒的に古民家の町並みの方が見ごたえがあります

2023-07-02 08:00:00 | 日本の町並み
 茨城空港への足になる前に廃線となってしまったのが鹿島鉄道でしたが、足の便が悪くなった副産物で古民家の町並みが冷凍保存されてしまったのが茨城県の小川町でした。鹿島鉄道は、たとえ空港の足で使われても、さほど乗客数の増加は見込めず赤字の解消にはならなかったのでしょう。赤字のために廃線になる鉄道は多いのですが、人口の多いところを避けて線路が引かれたため、不便さが廃線の原因になったのが旧国鉄の篠山線でした。今回は、町はずれを篠山線が走っていた篠山の町を紹介します。

 篠山は丹波篠山市の中心部で、兵庫県の中東部、ちょっと北に行くと京都府という兵庫県の端に位置し、福知山線が複線電化され大阪まで1時間程度で行けるようになり、大阪との結びつきも強くなっています。市の名称は篠山市でしたが、町村合併で隣接地に丹波市が生まれて、市長の辞職まで伴ったごたごた騒ぎが起こります。住民投票の結果は頻差でしたが、丹波篠山市に名称変更した歴史があります。歴史的にみると、丹波というより篠山という名称のほうが重みがあると思うのですが。立杭焼きもいつのま仁か丹波焼という名称になっていて、そんなに丹波って名前にしたいのかって思います。

 ところで、廃線となった篠山線ですが、福知山線の篠山口から分岐して福住までが開通していましたが、山陰線の園部までを結ぶ構想でしたが、戦争で中止となったようです。ところが、線路を引くにあたって蒸気機関車の火の粉が降りかかる都の反対で、市街地からはるかに川を越えた南に引かれたため不便で利用は伸びずに1972年に廃止されました。廃止と聞いて、毎度のことながら地域住民は反対運動したわけですが、引くときに反対して町はずれに追いやり乗りもしない線の廃止に反対とは身勝手なものです。この勝手さが、市の名称変更にもつながっているのかもしれません。

 篠山は篠山城を中心とする松平氏の城下町で、江戸初期に築城され、明治初期に廃城となり取り壊され、2000年には城跡に大書院が復元されています。城の遺構は、城跡を取り囲む石垣と堀や土塁の南馬出がありますが、城の南を除いて取り囲むように、古い町並みが残っています。

 
 
 
 
 
 
 
 
 城跡の東南東に東に向かって伸びるのが河原町で、旧京街道に沿って妻入りの商家が軒を接して立ち並んでいます。500m程にわたってこれでもかと言わんばかりに古民家が残されています。2021年に無電柱化が完了して、すっきりした街並みになっています。一部の民家は宿泊施設に、また食べ物屋や土産屋になっている家屋もありますが、一部の観光地の土産物屋のように景観を乱す状況ではありません。立杭焼(丹波焼)を中心とした展示を行う丹波古陶館もこの地区に建てられています・観光客がぞろぞろと歩き回りますが、日常生活の時間が流れているように思います。

 
 
 
 
 
 城跡の西のお徒士町は武家屋敷の名残ですが、残っている屋敷は5棟のみで、長屋門がありりっぱな庭も付き敷地は広いのですが、江戸時代に商家より位の高かった武家の屋敷というだけで、河原町に比べると見劣りします。

 
 
 
 
 北側に回ると青山歴史村といういかにも観光客用に用意した感じの施設もありますが、近くの大正ロマン館の方が魅力的です。大正時代に建てられた旧篠山町役場の建物で1992年に役割を終えて観光案内書として再利用されているレトロな洋館です。土蔵造りのどっしりとした日本建築の町並みに、軽やかな洋館は対照的な美しさがあります。さらに北に行くと、バスが通る二階町通りに出て、この道路沿いに土蔵造りの商家がポツポツと残っていますが、こちらは全くの商店街で、歩道のない狭い通りに車が頻繁に通り、気持ちの良い町並みではありません。

 旧篠山線が引かれたときには蒸気機関車の時代なので火の粉が飛ぶので町中に引くのは反対というのは、本音は新しい交通体系に反対ということの表向きの理由だったかもしれません。鉄道が通ることに反対して、町から遠いところに引かれた鉄道のために不便になったり、町が廃れた例は篠山線に限ったことではありません。勇舞なところでは、JRの中央線で、甲州街道沿線の反対運動のため現在のように大きく北に外れて、当時は乗っパラだった場所に一直線の鉄道が惹かれました。反対が無かったら、現在の中野、吉祥寺などの繁栄はなかったかもしれません。このような反対運動というのは、かなり感情的な面が多く先見性があるとは言い難いような感じがします」。チャットGPTは先見性のある答えを出してくれるでしょうかね。

百里基地をスクランブル発進をする戦闘機の轟音の下には、物音ひとつしない冷凍保存されたような小川町の古い町並みがありました

2023-06-18 08:00:00 | 日本の町並み
 かつて大隅半島を半周する鉄道の中間駅の記念館があり、戦争中の特攻隊の基地の一つであったのが鹿屋でした。特攻隊の基地は現在は航空自衛隊の前線基地になっていますがこちらも記念館があって、これまでに自衛隊や旧軍隊で使われた飛行機が展示されています。スクランブル発進をする自衛隊基地の一つで、東京に最も近い基地が百里で、現在は民間の茨城空港として共用の2本目の滑走路を持つようになりました。この茨城空港は、かつては利用促進のため東京との間に格安のバスがありましたが、コロナで週に数便となり、東京人にとっては遠い空港になってしまいました。東京へのアクセスは、常磐線の石岡にバスで出て電車ということになりますが、このバス路線の途中の小川町には古い町並みが残されています。今回はその町並みを紹介します。

 
 この小川町には、石岡から鉾田まで鹿島鉄道線というローカル鉄道が走っていましたが、2007年に廃線になってしまいました。軌道の一部は、空港と石岡駅を結ぶバスの専用道となり、一般車は通れないので渋滞はなさそうですが、そもそもバスは頻繁には走ってはいませんが。茨城空港の開港が2010年ですから、もう少し廃線が遅れていたなら、空港アクセス線になっていたかもしれませんが、空港に行くには支線を延ばす必要があり、そこまでしても、茨城空港の状況から需要は見込めなかったでしょう。混むのは年に1℃の百里基地の基地際の日だけだったかもしれません。この茨城空港は、スクランブル基地ということだけあって、空港の展望台から基地方向はすりガラスで醜くしていますが、中国や韓国の民間機が降りてくるのは、不思議に思います。

 
 
 
 小川町は、霞ケ浦の水運を利用した廻船問屋が核になりましたが、前述のように今は廃線となった鹿島鉄道線が開通して運輸業としては見捨てられるようになったそうです。その後、養蚕業が盛んになり全国に名を知られるようになったのですが、これも百里基地の前身の海軍基地ができて衰退してしまいました。さらに、県道は小川町をバイパスし、小川町から離れたところを通ってしまい、水戸と霞ケ浦を結んだ旧道には石岡駅と茨城空港とを結ぶ路線バスが走るのみとなり時代から取り残されたような形となりました。その結果、旧街道沿いに古い町並みが冷凍保存されてしまったようです。


 
 
 
 この旧道は旧街道らしく、微妙に曲がりくねって見通しがききません、路線バスの運転は機を使うでしょうが、歩いている人はほとんど見かけません。この道沿いには、一階に出格子をはめ二階部分が土蔵造りの古民家が多く、どっしりとした門構えの奥には造り酒屋もあります。人気の少ない道沿いには、古風な青色の朝顔が咲き乱れ、見上げた空の夕焼けは、雲の間から光の帯が放射状に伸びて、なにか修家用的な感覚を受けそうな景色でした。

 前述のように茨城空港から乗ったバスが終点の石岡駅に近づくと鹿島鉄道の旧路線敷を使ったバス専用道を走ります。鹿島鉄道は単線でしたから、この専用道もバス1台が通れる幅しかありません。単線の鉄道では、タブレットと呼ばれる通行証で、双方向から列車が来て正面衝突するのを防止していて、すごく原始的ですが、通行証を運転士が見誤らない限りシンプルで安全なシステムです。さすがに現在では、大部分が電気的な自動閉塞システムが導入されて、通行証は信号機になっています。そこで、疑問になったのが、バス専用道の衝突防止システムです。ダイヤはさほど密では異様ですが、途中のかつて駅だったらしい場所で対向車と行違いました。タブレットや信号機などは見当たりません。ダイヤで行き違い場所を決めてるので、その通りに走っているのでしょうか、それとも都会にあるバスきっせつシステムのように電波と簡単なコンピュータシステムの組み合わせなのでしょうか。

大隅半島の括れた部分の西半分に位置する鹿屋には伏見稲荷で見る千本鳥居に加えてガラスの鳥居が不思議な光景を醸しています

2023-06-04 08:00:00 | 日本の町並み
 宮崎県の海岸沿いを南下してきた日南線の終点は鹿児島県にちょっと突き出た志布志で終点でしたが、かつては志布志から都城と国分に線路が伸びていました。今回は、この国分まで伸びていた大隅線の途中駅があった鹿屋を紹介します。鹿屋には古い町並みも残されているようですが、時間がなくて大隅線の遺構などしか紹介できません。再度訪問の時には改めて紹介しましょう。

 
 
 
 鹿屋市は、大隅半島の中央当たりの西半分を占め、東の志布志市と半島の中央あたりを二分しています。かつての大隅線の鹿屋駅があったのは、錦江湾からだいぶ東の内陸部で、市役所などがある市の中心部です。旧鹿屋駅のあったのは、この市役所の近くで、駅があったところには鹿屋市鉄道記念館が建てられ、かつての鹿屋駅の資料や大隅線を走っていたディーゼルカーが陳列されています。ただ、このディーゼルが乗るレ0ルはかつての大隅線の向きとは90度ずれています。

 
 
 市役所の横を抜けて、小高い山に上ってゆくと頂上付近に神徳稲荷があります。千本鳥居は京都の伏見稲荷が有名で、伏見稲荷には千本以上が立ち並んでいるそうですが、神徳稲荷にも千本鳥居が立っています。おそらく千本にはならないかもしれませんが、こちらには伏見にはない鳥居が立っています。それはガラスでできた鳥居で、境内の入り口と億都に二本がありました。千本鳥居の朱色が連なるこうけいも鮮やかできれいですが、ガラスの鳥居は異次元の物が立っているといった雰囲気で、他では見られない光景です。神社の境内でよく見かける絵馬を下げているところには、絵馬ならぬ絵狐がたくさんぶら下がっていました。

 
 
 
 この小山を反対側に降りると自衛隊の鹿屋基地があります。頻繁に飛行機が離着陸を繰り返し、吉があることを実感させます。この基地に隣接した北側には鹿屋航空基地記念館があります。実質的な軍隊である自衛隊は好きではありませんが、飛行機好きな筆者は飛行機を見に立ち寄りました。航空自衛隊でかつて使われていた飛行機が多数展示され、ゼロ戦も数少ない現存機が展示されています。中には南極基地から採取したものと思われる南極の石もあります。

 
 
 最大の見ものは第二次対戦で活躍した二式大艇で現存唯一だそうです。水陸両用機で、敗戦後にアメリカ軍が調査したところ、技術の優秀さに下をまいたといわれています。当時は川西航空機で製造されましたが、この会社は戦後に新明和工業となりUS-2とこれまた世界に類のない優秀な救難飛行艇を作っています。記念館にはUS-2の旧式機のUS-1が展示されていました。人殺しの道具の二式大艇が人助けの救難機US-2に発展したのは皮肉かもしれませんが、技術の平和利用そのものです。

 二式大艇の技術がよみがえったのが救難飛行艇のUS-2ですが、実はこの飛行機はPS-1という哨戒飛行艇ををもとに再設計したもので、残念ながらもとは人殺しの道具だったのです。PS-1は日本独自の哨戒艇だったのですが、米軍の哨戒機とインタフェースが合わな糸の理由で早々に退役してしまい、アメリカ製の高価な飛行艇を交わされることになりました。哨戒機というのは、潜水して隠密行動をする潜水艦を見つけて撃退するもので、潜水艦が発する音などを分析して位置を割り出し、潜水艦がどれというのまで特定できるそうです。このため、哨戒機には高性能のコンピュータが搭載され、まさに空飛ぶコンピュータセンタのようなものなのだそうです。人殺しの道具に使われると言ってコンピュータを排除はしないことと同様に、原爆に使われるといって原発を否定するのは非科学的と思うのですが。

3つの国鉄線の結節点が今は日南線の終点の車止めが寂しい志布志ですが町並みにはいわくありげなものを含めて見どころいっぱいです

2023-05-21 08:00:00 | 日本の町並み
 
 観光路線の日南線の途中駅の油津では広島カープが毎年キャンプをする町で、カープ通りだけでなくカープ神社まで作って町中でカープを応援していました。油津を通る日南線は宮崎から日南海岸を通って志布志まで延びていますが、かつては志布志で2通りに分かれて、鹿屋を経由して国分までの大隅線と、もう一方は都城まで至る志布志線の分岐駅でした。今では両線とも廃線となり、行き止まりの駅になってしまった志布志駅ですが、駅から北東に広がる街並みには見どころがいっぱいで、今回はこの街並みを紹介します。

 志布志は宮崎県を走ってきた日南線が鹿児島県にちょこっと入り込んだところですが、明治の初期には廃藩置県で鹿児島に所属した後に宮崎県となり再び鹿児島県となった歴史があるようです。江戸時代には薩摩藩が数多く持っていた外城の一つで藩の直轄の土地で海運の拠点として栄え、現在も残る武家屋敷やどの町並みはその面影のようです。

 
 
  
 武家屋敷などの町並みが残るのは、駅の北東方向で2つの内城と松尾城跡がある小山に挟まれたような地区で、その途中に寺町のようにお寺の多い地区があります。この地区にはお寺に混じって統合医院のレトロな洋館もあって楽しい散歩道です。

 
 
 
 
 

 
 2つの山城の囲まれた武家屋敷町ですが志布志の武家屋敷群は、りっぱな庭園が残っている点でしょうか。武家屋敷だけでなく、寺の住職が作ったという庭園もあります。中にjはりっぱな庭園は残っているのに、母屋の屋根は崩れてしまっている屋敷もありました。武家屋敷地区には湧水も多く、湧水が流れ込むのでしょうか、近くの掘割の流れもなかなかきれいです。

 
 また、志布志には放浪の俳人の種田山頭火が鹿児島県で唯一滞在した場所であったそうで、句碑や滞在した宿屋の跡地があります。ほかにも、嫁女石という供養塔や角地蔵それに密貿易屋敷跡などいわくありげな物が多くて散歩をしていて飽きさせない町です。

 湧水の水は清冽で飲んでも美味しいものが多いのですが、純粋の水とは異なるようで、純水は美味しくはないのだそうです。この究極に不純物を取り除いた純水は半導体の生成に不可欠で、原料となる水の良い場所に工場が作られるようです。かつて1kgは4℃の純水1リットルの質量と規定されました、この純水の質量も微妙に変化するそうです。そこで、やむなくフランスにあるキログラム原器の質量を1kgとすると規定したのですが、これも不変ではなかったようです。もちろん空気中の酸素で酸化しないよう、参加しにくい合金で作り、気密性の容器に入っていましたが、宇宙線が通り抜けるとわずかながら質量が変化するそうなのです。そこで、現在の質量の規定はプランクの定数という耳慣れない物理量を用いたものに変わっています。

鯉神社まで作ってしまった熱の入れようですが、古い町並みもなかなか味わい深い油津です

2023-05-07 08:00:00 | 日本の町並み
 標準時の子午線の通る明石市内に見事な藤が咲くのが魚住の住吉神社でした。明石というとタコ、そしてそのタコが入った明石焼きが名物で、大阪のタコ焼きとは一味違います。その大阪のお好み焼きと一味違うのが広島焼で、広島といえば広島カープ、そのカープがキャンプ地とする油津にはカープ通りがあります。前置きが長くなりましたが、今回は宮崎県の日南市の油津を紹介します。

 
 
 
 
 広島カープがキャンプをするのはJR日南線の油津駅の南、市街地の背後にある天福球場のようです。駅の東側にはカープ商店街があり、そこから球場に伸びるのがカープ通り、近くの商店街の中には鯉神社まであり、広島カープ一色です。一方、タイガースならぬ寅さんのロケ地もあって、市街地の頭部を流れる堀川沿いにあり、ロケ地の対岸にある堀川資料館にはその時の様子が写真展示されています。この堀川資料館は飫肥杉作りの古民家で、対岸からの外観も風情があり、そのベランダからの風景もなかなかです。

 
 堀川資料館のある左岸の堀川河口、油津港のあるところまでが古い町並みが広がる地域です。表通りは表通りの国道220号線は車の往来の激しい喧噪な場所ですが、ちょっと路地を入ると土蔵造りの古民家が静かに佇んでいます。ただ、この表通りにもレトロな商店の遺構が残されていて、満尾書店は2階部分の意匠がレトロな木造の登録文化財、そして杉村本店は窓が連続する木造3階建ての登録文化財があります。

 
 
 
 
 
 この満尾書店と杉村商店の西側、国道と赤レンガとおりとわかば通りに囲まれた一帯には、赤レンガ館、渡邊家住宅があり、ほかにも木造の古民家が建ち、時間の止まったようなエリアです。このような路地だと、メンコやビー玉遊びもできそうですが、この頃の子供はスマホゲームでしょうかね。

 
 南に行くと油津港で、南国の宮崎らしいパッっと明るい景色が広がります。その景色の中に直方体に赤い屋根が乗り窓のない石倉倉庫の建物が、ちょっと異質にぽつんと建っていました。

 カープ/carpは英語の授業で「これは単複同型でsは付かないんだよ」って教わりました。物質名など数えることのできない名詞は単複同型ですが、動物でもfishやsheepなど群れを成して1匹ずつ数えるのが難しい場合には単複同型を採ることが多いのだそうです。このように言語というのは、複雑なルールが入交り、必ずしも論理的とは思えないような理由でそうなっていることが多いように思います。長い歴史の中で、いつの間にか変化してきたのでしょうが、このような複雑なルールは、スマホの多言語翻訳ではすべてデータベース化されているんでしょうね。ただ、多用される英語では完璧に近いのでしょうが、ベトナム語から日本語に変換したときは、意味不明の文書が出てきました、データベースのデータ不足なんでしょうか。

大阪の住吉大社から藤の枝が流れ着いたという魚住の地にある住吉神社は神木の藤に加えて境内を埋めつくす藤棚から下がる藤の香りにみちあふれています

2023-04-23 08:00:00 | 日本の町並み
 都内の梅の名所の一つである亀戸天満宮は、梅の花だけではなく境内に所狭しと植えられた花々が策植物園のような神社でした。これらの花々の中で、梅の次に人気があるのが境内で大きなスペースを持つ藤棚の藤野華ではないでしょうか。道真にとって藤原氏は政敵ですが天神さんの境内に藤の花というのも皮肉でしょうか。藤棚はあちこちで見かけますが、意外と規模の大きなものは少ないようで、筆者の故郷の神戸の近くでは、明石市の住吉神社のものが有名です。今回は、藤の咲く季節には境内で能狂言も演じられる明石市魚住の住吉神社を紹介します。

 
 
 明石市は日本標準時の子午線が通ることで全国的な知名度がありますが、子午線の通るのは明石市の東より、今回紹介する住吉神社は西寄りにあります。神戸と姫路とを結ぶ山陽電車で明石駅から西へ7駅の山陽魚住を降りて海側に200m程いったところにあるのが魚住住吉神社で、境内の南の端は海に面していて、そこに鳥居が立っています。神社の起源は古く、神功皇后の三韓征伐の時に暴風雨に遭い魚住に避難して、住吉大社(大阪)に祈願したところ、嵐が収まったため、凱旋ののち摂津国の魚住にお祀りされたと言われてれています。一方、境内に藤が咲き乱れる理由を物語る説があり、大阪の住吉大社神代記によれば、住吉大神が播磨国に住みたい、藤の枝が流れ着いた所に祀れと託宣し、その流れ着いた魚住の地に雄略天皇が勧進をしたというものです。この伝説を裏付けるように、境内には神木の藤が植えられていますが、空を飛んだ梅と違って藤は海を渡ったんですね。

 
 海に向かって立つ鳥居の後ろに広がる瀬戸内海は、神功皇后の時と違って穏やかでゆったりしています。この海を読んだ万葉集の歌碑が境内に立っていて、聖武天皇行幸の時に笠金村が読んだもので、魚住の海はいつ見ても飽きない、というものです。この歌はさほど有名ではないのですが、この歌を本歌取りして藤原定家が読んだ「来ぬ人を松帆の浦の夕凪に焼くや藻塩の身も焦がれつつ」の歌は百人一首にもある有名な歌です。

 
 
 
 
 
 海の神社といこともあって、海に向かって鳥居があり、こちらが正面と思われますが、鳥居から楼門、舞楽殿、そして拝殿、本殿が一直線に並んでいます。この本殿を取り囲むように多くの摂社末社が並んでいます。この神社を有名にした藤棚は、社殿の裏側にあって、駅のほうからくると、まずこの藤棚が目に飛び込んできます。藤の花が有名ですが、初夏のアジサイもなかなか見事なのだそうです。筆者が訪れた時に舞楽殿で演じられていたのは狂言で、保存会のメンバと思しき方々(おそらくアマチュアの方々ではないかと思います)が観客も多く、大盛況でした。

 本歌取りというのは、見方によっては盗作でオリジナリティを疑うものですが、和歌の世界では一定のルールによって認められているようです。最近では、朝ドラの中でも話題になったそうですが見ていないので詳細は分かりません。芸術作品や工業ディザインでは盗作の線引きは分野によって異なるのでしょうが、工業でぃざいの分野でオリジナリティを疑いたくなる作品が大衆受けしているような気もします。盗作の判断は権力が介入しそうな気もしますが、判断を人間ではなくコンピュータによるAIに任せるという手もあるかもしてません。(これとて権力が介在するかもしれませんが)。ただ、コンピュータに過去の膨大な作品のデータを記憶させても、盗作の規範そのものが、社会の変化とともに変化しそうです。