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世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

ネコにはあまり出会いませんでしたが男木島の石垣と石段それに斜面に張り付いたような古民家はそれだけで芸術品のように思います

2024-06-16 08:00:00 | 日本の町並み
 前回は上野の隣の谷中を紹介しました。美術館や博物館の集中している上野の隣にあることもあって、谷中にも大名時計博物館や朝倉彫塑美術館があります。朝倉美術館には猫の部屋があって、数多くの猫の彫塑であふれていますが、本物の猫が町中にあふれるほどいる所もあちこちにあります。その中でも尾道が有名ですが、尾道はこのコラムでも紹介してしまったので、今回は島中に猫が居る香川県の小さな島の男木島を紹介します。

 
 
 
 男木島は高松の沖合10kmほどに浮かぶ小さな島で行政区画としては高松市になります。人口は160人程度ですが、さすがにどうもネコよりはまだ人間の方が多そうで、観光情報に書かれてるようにはネコには会いませんでした。高松港からフェリーは高松港の防波堤に建つ玉藻灯台をかすめ屋島を右手に見て20分ほどで経由地の鬼が島伝説のある女木島に入港します。鬼が島伝説の女木島らしく防波堤の上には港の方を眺める鬼の像が置かれています。女木島のフェリー乗り場の建物は斜めの屋根のある建物をやや低い廊下でつないだきれいな建物です。さらに20走って男木島に到着しますが、こちらのフェリー乗り場は網目模様の屋根で覆われた建物、女木島も男木島もフェリー乗り場は凝っています。

 高松港からのフェリーは、2時間おきで男木島で折り返しの時に20分ほど停泊するので、島の滞在は2時間20分か4時間20分ということになりますが、島の北端の岬まで足を延ばさないのであれば2時間20分あれば散歩できそうなくらいの小ささです。このフェリーで往復ともに何組かの同じ家族に会いました。春の彼岸の頃でしたから、島を離れた人たちが墓参りに訪れたのではないかと思います。過疎の進む島でお墓だけは島に残しているのでしょう。

 
 
 
 
 
、男木島は、石垣と階段の集落しかないような島ですが、のんびりと散策してもよさそうな島の一つです。男木島の港は西向きで、港の周辺に集落があります。この集落の後方の小高い山の中腹に豊玉姫神社があって、石垣の間の石段を上ってゆくと小さな社があります。神社そのものより、ここからの瀬戸内海の眺めがゆったりしていて、はるか遠くには瀬戸大橋の主塔らしきものも眺められます。石段は少々きついのですが、上る価値ありです、というよりは、この神社以外にはさしたる観光名所はあまりなさそうです。島中の家の壁などに前衛的なアート作品が点在しますが、はっきり言って、あまり見たいという気持ちは起こりません。石垣と石段と古民家の作り出す風景の方が芸術的のように思います。ところで、島にいる猫ですが、ほとんどみかけませんでした、なので写真もありません。

 桃太郎伝説は日本中にありますが、有名なものは岡山県のもののようです。桃太郎が対峙したと言われている鬼の住む鬼が島もあちこちにありますが、桃太郎が岡山県ならば、対岸の香川県の沖合に浮かぶ女木島は格好の位置関係になりそうです。女木島には鬼が住んでいたという洞窟もありますが、いかにも観光用という匂いがするので下船をしませんでした。男木島には鬼にまつわる伝説はなく、観光客の目的はもっぱら猫なのだそうです。猫は年老いると鬼ではありませんが鬼と同様に人間に危害を与える猫又と呼ばれる妖怪になるという伝説がありますが、そうだとしたら男木島は猫又だらけになってしまいそうです。各地に伝わる伝説は、人から人へ口伝えで引き継がれて北でしょうが、現在では民話のしゃべり口を含めて映像のデータベースかされて保存されているようです。コンピュータやスマホの規格は日々変わっているの現状、これらのデータベースって未来にも再生できるのでしょうか。

礎石だけが残る谷中の塔の跡は放火犯に腹立たしさを感じますが、谷根千の東端に位置する谷中は霊園という薄暗さはない散歩道です

2024-06-02 08:00:00 | 日本の町並み
 前回は都内に残る重文の五重塔の一つがある池上本門寺界隈を紹介しました。本門寺の五重塔は戦災でも被害を受けなくて済みましたが、戦災でも被害が無かったのに戦後に放火で焼けてしまった五重塔がありました。それは谷中霊園に建っていた天王寺の五重塔で、幸田露伴の小説「五重塔」のモデルにもなった塔です。今回は、五重塔の礎石のみが残る谷中墓地周辺を紹介します。

 
 天王寺の五重塔の放火事件というのは、1953年に起こった不倫清算の末の心中で、睡眠薬自殺の後に石油による放火までやってしまったそうです。当事者は男女関係の不倫だけでなく、貴重な文化財に対する倫理観も欠如していた不幸な出来事です。谷中霊園はJR山手線の鶯谷駅から日暮里駅にかけての南西にほろがる広大な霊園で、五重塔後は霊園の中央のやや北寄りに礎石と脊柱のみが寂しく建っています。

 谷中は上野公園の北に谷根千と呼ばれる、古い町並みが残る一郭で、谷中が東寄りでその北西に千駄木、そして千駄木の南南西に根津といった位置関係ですが、それぞれの境界は住居表示で千が引かれているのですが、散歩をしていると、どうもあいまいな気がします。したがって、今回の紹介範囲も住居表示の谷中からはみ出しているかもしれません。

 
 
 
 
 
 谷中は霊園には有名人の墓地も多く、徳川瀑布最後の将軍の慶喜の墓もあります。明治維新で負け一時は朝敵であった慶喜が谷中に葬られたのは、諸説ありますが、最終的に明治天皇と講和したことによるとされています。また、福沢諭吉の代わりに一万円札の肖像となった渋沢栄一のお墓もありました。これらの広大な墓地を囲むようにお寺が多く、もともとは上野寛永寺の支院ががあったところに、明暦の大火の後に焼失した寺が移転をしてきて寺町を形成したようです。

 
 
 
 
 
 
 お寺に交じって、高村光太郎が卒業した第一日暮里小学校の校門前には光太郎の直筆が添えられたフクロウの像があったり、大名時計だけを集めた大名時計博物館が在ります。芸術の香りの高い上野に続く土地柄でしょうか。北寄りの日暮里駅に近いところには朝倉文夫が住居兼アトリエとしていた建物を改装した朝倉彫塑館があります。アトリエであったところを中心に彫刻が置かれていますが、温室であったところは猫の間といい猫が好きであった作者らしく猫の彫刻であふれています。居室であった和室は中庭に湧水を利用した池があってこちらも見ごたえがあります。


 新しい3種類の紙幣が発行されますが、これを印刷する印刷局も大変でしょうが、自販機などのお札を識別する装置の変更はもっと大変かもしれません。置き場所は全国の津々浦々に散らばっているわけですから、取替の手間たるや大変でしょう。新五百円硬貨が使えない機械が数多くありますが、お札の変更に合わせて更改するのではと思います。新しいお札は偽造防止のために3Dホログラムやマイクロ文字などが取り入れられていますが、判別機でどのように処理されているか興味がありますが、判別ユニットを製造するメーカの極秘事項なのでしょう。コンピュータのスキャナや印刷技術ではカバーができないとのことですが、それは現状の技術水準のことで、結局はいたちごこなのでしょうか。

本門寺の五重塔は弁柄塗りの真っ赤で境内の桜にも負けていません、桜には早い頃には池上梅園の梅があります

2024-05-19 08:00:00 | 日本の町並み
 京都の景色を代表するような八坂の塔をに向かって上っていくと着くのがこれまた京都の町家の景色が現れる産寧坂と二寧坂でした。京都市内には東寺と醍醐寺に国宝の五重塔がありますが、重文の八坂の塔はこれらの塔よりも散在感があるように思えます。五重塔は国宝が11基、重文が13基ありますが、東京都には重文の2基が残っています。今回はそのうちの1基が建つ池上本門寺界隈を紹介します。

 
 
 池上本門寺の最寄り駅は東急池上線の池上で歩く距離も短いのですが、梅が咲くころは、歩く距離はやや長くなりますが北側の都営三田線の西馬込で降りて池上梅園に寄り道していく経路もあります。池上梅園は西馬込の駅から第二京浜を横浜方向に1km足らず行った左手にある公園で、日本画家の伊藤深水の自宅剣アトリエの跡になるそうです。広さはトウキョウドームの1/5程度ですが、高低差のある公園は思いのほか広く感じます。庭の高台に昇と、足元には絵目の花が広がり、遠くには都心のビル群が遠望できます。梅の花だけでなく、足元を見るとフクジュソウも咲いていました。梅の頃には来訪者で混雑しますが、お茶室もあって、春先の本門寺詣でには欠かせない場所かもしれません。

 
 さて本門寺ですが、創建は13世紀の日蓮宗のお寺です。この一帯は池上氏の領地で、日蓮が没した後に7万坪余りを寺に寄進し、本門寺の基礎ができたそうです。五重塔などが建つ境内は小高い丘の上にあって、池上梅園の梅に対して、こちらの境内は桜が見事で、どちらの花の時期とするかは悩ましい選択です。多くの建物が建っていますが、ほとんどが戦災で焼失して戦後に再建されたものです。焼け残った五重塔と宝塔のみが重文になっています。

 
 
 
 
 五重塔あ江戸初期の建立で高さは32mほどで、前面にベンガラが塗られて、なかなか派手な印象を受けます。比較的に軒の張り出しが深くて、バランスが良い美しい外観の五重塔の一つです。初層の蟇股には十二支の彫刻がはめ込まれた居ます。一方の重文の宝塔は19世紀の創建で、こちらも真っ赤ですが、弁柄の赤ではなくこちらは朱の漆塗りだそうです。

 
 東急の池上駅からはこちらが本来の参道で、古いたたずまいの店や道標が合ったりして、門前町の様相を残しています。

 春に咲花木の梅・桃・さくらの区別の仕方は何度聞いてもすぐに忘れてしまいます。基本的には開花期や、花の付き方、花弁の形で見分けられるのですが、すぐにごっちゃになってしまいます。スマホで花などを撮って調べてくれるアプリがいくつかあるので、それを利用すればすぐわかり、学名まで判ってしまうアプリもあります。ただ、アプリよっては、候補がいくつも表示されて混乱することもあります。梅と桃と桜の確立が1/3ずつなんて結果が出てしまったら困りますが、これもご愛敬で、名前がわからなくても見て美しければよく、ましてやAIが美しさの採点をするかもしれませんが、人間の感性には踏み込まないでほしいものです。

重伝建地区の産寧坂や二寧坂の町並みはオーバーツリズムに侵されていますが、人ごみの上の町家の軒下に突き出した門灯を見て歩くのも楽しいものです

2024-05-05 08:00:00 | 日本の町並み
 坂の多い色街が混とんとしているのが東京の神楽坂でした。色街といえば舞子さんを思い起こしますが、その舞子さんを多く見かける祇園からさほど遠くない京都の景色を代表するような坂の町が、東山の四条から五条にかけての産寧坂などではないでしょうか。今回は清水寺の北に続く坂の町を紹介します。

 
 東山通りを走るバスを清水道で下車して東に上っていくと目の前に法観寺の五重塔が現れます、別名八坂の塔でこの風景は京都を代表しているようでドラマの舞台が京都の時には「京都です」というテロップのように使われるものものです。NHK教育の日曜日の朝に放送の「京も一日陽だまり屋」のお店はこの辺りを想定してるのではと思ってしまいます。京都ではこのところオーバーツーリズムが問題となっているようで、東山大利を走るバスは超満員、起点の京都駅では2~3台待ちは当たり前で、清水道などで降りようものなら、次に乗ろうとしても満員通過されてしまいます。これでは市民にとっては大迷惑の状況のようで、バスだけでなく、八坂の塔に上る道も大変な人込みです。

 
 八坂の塔の右側を通り抜けて上っていくと産寧坂、三年坂とも言われていますが語源的には、産寧坂を上り切った先にある清水寺の観音様に「お産が寧か(やすらか)でありますようにとの願掛けをしたという説が有力です。産寧坂の途中から振り返ると八坂の塔が町並みの上にそびえていて、こちらからの景色も絵になります。この地区は重伝建にも指定されている、古い民家などが連なる町並みが続きます。電子部品のトップメーカである村田製作所の創業者の息子が設立した清水三円坂美術館が町並みにうずもれるかのように建っています。この美術館は目立たない存在ですが、創立者が日本の伝統工芸品が海外に流出することを嘆いて、海外から買い戻してまでコレクションした品々が展示されています。

 
 
 産寧坂の途中から左に折れて下っていくと二寧坂で、こちらも二年坂の表記が存在します。産寧坂からの入り口が石段になっていて、町並みを見下ろすことができ、これも絵になる風景です。産寧坂と同様に電線の地下埋が完了して、空をすっきり見ることができます。この町並みの中に古民家を利用したスタバの店があって、スタバにもいろんなレアものがることに感心します。太宰府天満宮の参道には隈研吾設計の店があり、ソウルには1剣軒だけですがハングル表記の店がありました。中国では「星巴克」と漢字表記をされているのだそうですが、あまり記憶にありません。二寧坂をさらに丸山公園方向に行くと一念坂となるそうですが、この坂があった認識が無いのでここでは紹介できません。

 
 
 
 これらの町家の店先の多くには味のある門灯が突き出ていて、この門灯を順に見ていくだけでも面白いです。ドイツに行くと、店屋の特徴をレリーフ状にした看板が店先に下がっていて楽しいのですが、こちらではそれが門灯なのですね。お店の名前のほかに、店の特徴を表しているらしき切りえのような模様があしらわれています。

 清水三年坂美術館の創設に関連した村田製作所は京都に生まれた電子部品製造分野では世界シェアトップクラスのメーカで、セラミック・コンデンサやショックセンサなどでは世界一のシェアを持っています。スマホの中を開けると村田製の部品がゴロゴロ出てくるのではないでしょうか。アップルがいくら威張っても、村田製作所の部品が無ければスマホは作れないでしょう。京都で製作所という名前で思い出すのがノーベル受賞者を生んだ島津製作所ですが、製作所という名前は付きませんが、京セラ、日本電産、オムロン、任天堂、ロームなど日本の産業を支えるそうそうたる会社が京都で生まれています。ノーベル受賞者の出身大学も京大8名、東大8名と同数で、教授陣となると京大5名、東大2名と西高東低です。京都は千年の伝統を持つ都で、優秀な人材が集まるところなのでしょうか。

神楽坂の表通りを歩いていたのでは色町の雰囲気は判りません、右か左の路地に曲がって迷子になると町並みの深さが判るかもしれません

2024-04-21 08:00:00 | 日本の町並み
 伎芸天の秋篠寺、七福神の弁財天と芸事の神様にゆかりのある場所を紹介しましたが、芸事というと色町を思い起こします。色町と言われるところは、日本全国津々浦々にあるようですが、これらの中から東京のほぼ中央にある神楽坂を紹介しましょう。


    
 神楽坂は、飯田橋から地下鉄東西線の神楽坂駅に向かって坂を上り、大久保通との交点の神楽坂上までで、神楽坂駅はこの道路の延長線上ですが、厳密には神楽坂ではないようです。神田川に向かって東になだらかな斜面が続く町は、神楽坂以外にも有名な坂や名もなき坂など数多くの坂があります。朝日坂は江戸時代に朝日天満宮があったため、袖すり坂は短くて狭い坂で、行違う人の袖が擦れ合うような狭さからの命名のようです。また、瓢箪坂は坂の途中がくびれているためで、軽子坂は江戸時代の飯田濠にあった神楽河岸に荷揚げされた荷物を軽籠に入れて江戸市中に運搬する人たちが多く住んでいたことによるようです。


  
 これらの坂の途中には神社仏閣も多く、色町との対比が不思議なような気もします。有名なところでは、飯田橋から少し上った毘沙門天の善福寺、色町にふさわしくしゃみせん寺と呼ばれる大信寺、大奥ゆかりの円福寺、身代わり地蔵の祠のある龍門禅寺などなど。

 
 
 
 
 
 これらのお寺や坂の神楽坂は迷路の町並みで、数多くの横町の奥には、敷居の高そうな料亭や、飲食店が並んでいます。神楽坂の本通りには背の高いビルが立ち並び車が頻繁に通る、どこにでもあるような店舗が並んで、これが有名な神楽坂なのかとがっかりします。この本通りから、右や左にある路地に入っていくと景色は一変します。雑然としていて、迷子になりそうですが、色町というのはこのような雰囲気なんだと感じます。

 都内を自転車で走ると坂が多いのに驚きます。干拓地でまっ平らなオランダではサイクリングが盛んなのだそうですが、わが国で電チャリが増えたのは、都内の坂の多さも理由の一つかもしれません。この電チャリはペダルのテンションを検出するセンサの出力が大きくなると坂だ!ってわけで、モーターの電源が入るようです。身の回りでコンピュータが入ってない装置を探すのが難しくなってきましたが、電チャリも一種の自動制御なんですね。モーターはあくまで補助的なものなので、免許なしで運転できるのですが、紛らわしいのは電動自転車で、こちらは原動機付き自転車として免許が要ります。不心得者になると、この電動自転車を無免許で載って歩道を走る輩がいます。スマホを見ながら歩道を走る自転車と言い、倫理観のない時代になりました。

七福神に誘われて巡った深川ですが、七福神以外にもいろんな発見がありました

2024-04-07 16:18:16 | 日本の町並み
 前回は近鉄の大和西大寺駅と奈良駅との間の北に広がる佐保路、佐紀路を紹介しました。多くの古墳群に加えて、首をかしげてほほ笑む秋篠寺の伎芸天もこのルートの魅力を高めているように思います。伎芸天は名前の通り芸事の仏様と言われ芸能界でもお参りに来る方も多いそうです。芸事の神さまというと、よく知られているのは弁財天のほうで、七福神にも入っています。お正月にはこの七福神を順に巡ることが初詣の一つになっていますが、東京近郊で調べると、ずいぶんと多くの七福神めぐりが存在するようです。今回は江東区にある深川七福神について紹介します。

 
 
 深川七福神は、地下鉄の門前仲町駅から森下駅まで5km程の道のりにある七福神です。どちらの駅をスタートしてもいいのですが、筆者は門前仲町の駅から歩き始めました。駅の近くにあるのは深川不動尊で初詣で長蛇の列でしたが、こちらには七福神はありません。お隣の富岡八幡に移動して本堂の裏手に回ると、小さな社に七福神の中で唯一の日本の神様である恵比寿さんが祭られています。富岡八幡は江戸三大祭の深川八幡祭りで有名ですが、恵比寿さんの社の付近はお正月だけにぎわうのでしょうか。

 
 
 400m程北に行くと冬木弁天堂でその名の通り弁財天が祭られています。弁天様の雰囲気とは違った怖い顔の獅子の像が版をしていました。500m程西に行くと清澄通りに出ますが、次の七福神の手前にえんま堂があって、巨大な閻魔像が参拝者を睨みつけています。

 
 
 えんま堂を通り過ぎると心行寺で境内にある小さな六角の祠に福禄寿が祭られています。福禄寿と寿老人は中国が起源の神様ですが、よく調べてみると同じ神様ではないかともいわれていて、七福神ならぬ六福神なのかもしれません。清澄通りを北に行って東に800m程で次の七福神の大黒天ですが、その手前に曲亭馬琴の生誕の地の記念碑があり、戯作者らしく和綴じ本を積み上げた形をしています。さらに、その先には小さな深川歯神様の像があり、この像の歯の部分をブラシでこすると虫歯にならない、歯医者顔負けの神様があります。

 
 
 大黒天があるのは円珠院で、境内には間宮海峡を発見した間宮林蔵の墓があります。大黒天は、国産の神様、因幡の白兎の大国主の尊と混同されますが、七福神の大黒天はインドの神様です。円珠院の先を北に回り込むと龍光院の毘沙門天です。毘沙門天は北を守護している四天王の一つの多聞天のことで、音訳をしたものが毘沙門天で意訳をしたものが多聞天です。

 
 龍光院を出た後は、次の布袋尊までは1.3kmでひたすら西に歩くのですが、途中に昨年暮れに亡くなった寺尾関の錣山部屋のそばを通ります。外観からはマンションの一角で看板が無ければ、相撲部屋とはわかりません。この辺りは隅田川にも近く、布袋尊の先では隅田川を行きかう松本零士デザインの水上バスが通っていきました。
 
 
 布袋尊のあるのは深川稲荷神社で無住のこじんまりとした神社です。お堂の右側には布袋尊の石像が置かれています。この布袋尊は中国では遠い未来に現れるという弥勒菩薩の生まれ変わりと言われて尊重されていますが、乞食坊主をみて誤解しただけとの説もあります。最後の寿老人の祭られる深川神明宮までは万年橋を北にわたって600mほどで、神明宮は深川で最も古い神社なのだそうです。寿老人は境内の右手の寿老神社にお祭りされています。境内にある手水に浮かべられた花々がきれいでした。

 7という数字が縁起がいいという由来は諸説あって、その中には七福神に由来するとの説もあります。宗教にまつわる説が多いようで、旧約聖書の神が世界を作った時に6日間で作って7日目を安息日としたとの説や、仏教の尊い宝物を七宝として敬うことなどがあります。天文学では太陽を含めて惑星の数が7(おそらく(天王星と海王星は未発見の頃の説)や月の満ち欠けが7日を周期とすることなどです。国が違えば縁起の良い数字も違うようで、韓国では3がよく、中国では8とのことですが、古くは9であったようです。我が国の江戸時代まで使われていた時刻の呼び方は真夜中の0時を九つそして2時を八つ(9の2倍の18の十のけたを省略)と呼んでいたのは中国の影響ともいわれています。宝くじを買うときに縁起の良い数字を選ぶ人もいますが、当たりは一様乱数で選ぶので偏りはないはず、ただコンピュータは内部を2進数で扱うので10進数の7は[111]と3桁のぞろ目、何か関連があるでしょうか。

佐保佐紀路は、仏像あり建築あり、古墳もあり、さらに遺跡もありで盛りだくさんの散歩路、途中をバスでワープすれば歩く距離もさほどではありません

2024-03-24 08:00:00 | 日本の町並み
 壱岐の島の中央部には長崎県で最大の古墳など、多くの古墳が集中して、重要文化財を含む多くの出土品が発見されていました。古墳群と聞くと世界遺産の仁徳寮などがある大阪府南部を思い起こしますが、古代政権の都であった平城宮の近くにも大きな古墳があります。今回は、奈良市内の喧騒から離れて、散歩にも向いている佐保佐紀路周辺を紹介します。

 
 
 散歩のスタートは近鉄の西大寺駅で、南に行くと垂仁天皇陵ですが、ここでは北に行って秋篠寺にお参りします。首を傾げた伎芸天像で有名で、芸能人が数多くお参りをするそうです。奈良時代に作られた脱乾漆像の頭部が、鎌倉時代に補修された木彫の胴体がの上に乗っかっていますが違和感はありません。すぐ東には競輪場がありますが、苔むす庭など、お寺の周辺は別世界です。競輪場のさらに東には神功皇后陵などいくつかの古墳があり、南に下ると平城宮後になります。

 
 
 平城宮後は東西1.5km、南北1km程のエリアで、朱雀門や大極殿それに東院庭園などが再現されていて平城宮歴史公園になっています。ただ、これらの建物が建つ以外は野っ原が広がるだけで、かつての平城宮の繁栄はしのぶことは難しい状況です。おまけに再建された朱雀門のそばを近鉄電車が横切っていきます。



 平城宮跡の北辺の路を東に1km程行って北に上がるとウワナベ、コネベの2つの巨大な前方後円墳が並んでいます。平城宮の北側に散在する古墳群の中でも最大の古墳の一つですが、被葬者は誰なのかは割っていないようです。コナベ古墳の北西には仁徳天皇皇后陵とされるヒシアゲ古墳もありますが、知名度はウワナベ、コナベ古墳ほどではないのは、墳丘の周りの水豪が枯れてしまって絵になりにくいからでしょうか。この3つの古墳に囲まれているのが航空自衛隊奈良基地ですが、なぜか滑走路は見当たりません。

 
 自衛隊の正門から南に延びる道を行くと海龍王寺と法華寺とが並んでいます。海龍王寺は国宝の五重小塔が有名で西金堂内に収められられた4m程の高さで、工芸品ではなく建造物として指定されています。お隣の法華寺は、光明皇后を移したとされる秘仏の十一面観音像が有名で、全国で7体しかない国宝の十一面の一つです。春と秋との開帳の時に拝観しましたが、和辻哲郎や亀井勝一郎が絶賛したほどは感激がなかったのは、手が異常に長く、表情もやy不気味だからでしょうか。

 
 法華寺の南の四つ辻を東に400mほど、北に曲がって200mほどにあるのが不退寺で、ちょっと地味なお寺ですが、本堂や多宝塔それに石棺は重文で、在平野業平が暮らしたという伝説もあるお寺です。こじんまりとした本堂はそれなりに存在感があります。

 
 元来た道を戻り、さらに東に1kmほど、北にお曲がって300m程行った突き当りに興福寺ならぬ興福院があります。拝観には予約が要り、地味なお寺ですが、遠州好みのお庭を煮ながら静かに一息入れるのにいい場所かもしれません。元来た道を戻って、車の多い道をひたすら東に1km程行くと突き当りが東大寺の転害門です。東大寺の大仏殿は、あまりにも有名ですが、1年に1度だけ大仏殿の正面にある小窓からお顔を見られる日があるのです。お盆の夜間拝観の時なのですが、大仏は、大仏殿の中から見上げることしかできませんが、この日だけは真正面から見ることができます。また、」ライトアップされた大仏殿も大きさが強調されて見ごたえがあります。

 
 
 大仏殿は何度も火災にあって、現在の大仏は、頭部は江戸時代、胴体の大部分は鎌倉時代で、台座の一部などに建立当時の天平時代の部分が残っているようです。天平仏像というと、聖林寺の十一面観音や新薬師寺の十二神将などに代表される仏像で、大仏ができたころのお顔はもっと凛々しかったのではないでしょうか。大仏殿も江戸時代債権のもので、創建当時の2/3の幅しかないのだそうです。よく、大仏殿は瀬かい最大の木造建築と言われますが20世紀には大仏殿を越える木造建築も出現していて、正確には世界最大の木造軸組建築なのだそうです。大型コンピュータの黎明期にコンピュータの共同利用で大きな比重を占めていたのは建築業界の強度計算だったそうです。コンピュータもない天平時代に、火災以外で壊れたことが無いあれだけの大きな木造建築を作れた技術基盤はどこにあったのでしょうか。

壱岐の島の中央当たりにある多くの古墳群は路線バスで行くと不便ですが、木漏れ日の中を森林浴をしながら散歩をすると気持ちのいいものです

2024-03-10 08:00:00 | 日本の町並み
 前回は辞し倭人伝にも記述されたと推定される一支国の遺構と思われる原の辻遺跡周辺を紹介しました。原の辻遺跡は弥生時代の遺跡ですが、その次の時代は古墳時代となります。古墳というと近畿一円、それも奈良周辺を思い浮かべますが、壱岐には256基が現存するそうで、今回は国の史跡に指定される6基の古墳が集中する、壱岐の島中央部を紹介します。

 
 古墳群は、郷ノ浦と勝本を結ぶ路線バスのうち、内陸部を走る路線の中央やや北寄りの壱岐風土記の丘のバス停がスタートポイントになります。このバスの本数がまた少ないんです、郷ノ浦と勝本を結ぶバスが2~3時間に1本で、その半分は海岸よりを走って風土記の丘には寄ってくれません。ただ、レンタカーで回るのも不便なんです、古墳群は散在していて、車の入れない山の中なので、ゴール地点から注射をしているところまで歩いて戻ることになるからです。風土記のお赤には、古民家を移築した資料館がありましたが、コロナのせいでしょうか、残念ながら現在は閉館中です。

 
 
 
 風土記の丘のそばにあるのが掛木古墳で7世紀に作られと推定される円墳です。石室内にある石棺は長崎県唯一のくりぬきで作られたもの。そこから森林浴コースと呼ばれる林の中の散歩道を南南東に下っていくと、最初に現れるのが百合古墳群で、小規模の古墳が斜面に23基も集中しています。百合古墳群のジグザグと下っていくと、河童が人間を生け捕りにしという池があった生池の跡があり、小さな石塔が立っています。平地になった道を西に行くと笹塚古墳で、二重構造の円墳です。ただ、古墳は雑木林に埋もれていて、全容はよくわかりません。この石室からは、数多くの亀型の金銅製品などが出土して重文に指定されています。

 
 
 
 
 来た道を少し戻り、南に曲がって、車道を横切り、さらに南に行くと長崎県最大の前方後円墳の双六古墳に出ます。こちらは、野っ原の中央に古墳があるので、全容が分かりやすいし、古墳の周りを一周できます。関市tsには入れませんが、伸びやかな感じがします。車道に戻って、車道を東に進むと鬼の窟古墳で、前室、中室、玄室の三室を持つ長さ17mの石室は九州でも屈指の規模を持つ物です。ただ、この古墳も林に埋もれて全体像はよく見えません。古墳群を後に車道を進むと、壱岐国分寺跡がありますが、広場に石仏と基石らしき物があるだけです。この国分寺跡の入口近くにへそ石と顎掛け石と取り巻くように石仏軍があります。へそ石は大きな石のてっぺんに擬宝珠状の石が乗っかりへそのような形をしているからのようです。一方の顎かけ石は、力自慢の大男が海岸で拾ってきて、自分の顎がかけられる高さに建てたものとの逸話があります。最後が国方主神社で、入口の普通の大きさの鳥居に加えて、境内にはちっちゃな鳥居があって、おそらくこれを来ぐることができれば、いいことがあるとのことのようです。

 
 双六古墳は「そうろく」と読むのだそうですが、最初にガイドを読んだ時には「すごろく」と読んでしまいました。祭られている人が双六が好きだったのかなと思ったりしました。枕の壮士にも登場する双六ですが、中国から伝来したのは7世紀ごろと言われるので、双六古墳が出j来た頃に伝来していたか微妙です。双六にはサイコロがつきもので、通常は正六面体で1~6までの数字がランダムに出てきます。一方、統計学などで疑似乱数を得るには正十面体のサイコロが使われ0~9までの乱数が得られます。学生の頃に疑似乱数を用いたモンテカルロ法というコンピューt・シミュレーション手法使ったことがありますが、これはコンピュータで疑似乱数を発生るもので、サイコロを振った結果を振った数値を入れるわけではありません。手間のことを考えれば、サイコロを使うのは非現実的ですが、果たしてコンピュータが出してくる乱数とサイコロの目の乱数と、どちらが偏りがないでしょうか。

壱岐には朝鮮通信使が立ち寄った時代よりももっと古く、弥生時代の魏志倭人伝に記述のある一支国の遺構とされる原の辻遺跡があります

2024-02-25 08:00:00 | 日本の町並み
 室町時代に始まった朝鮮通信使は対馬を最初の中継地として島伝いに九州に到達しましたが、対馬の次の中継港が壱岐の勝本でした。現在の勝本浦には通信使の遺構は残っていないようですが、もっと古い魏志倭人伝に出てくる倭国の島国の一大国、後の史書では一支国(いきこく)が壱岐であるとの説があります。そして、壱岐の原の辻遺跡がこの一支国の跡であると1993年に長崎県教育委員会が発表して話題となりました。今回は、一支国の遺構とされた原の辻遺跡の周辺を紹介します。

 原の辻遺跡は、壱岐の南東部のやや内陸にあり、壱岐にある旅客扱いする港で唐津からのフェリーが発着する印通寺港の北3km程の所にあります。公共の路線バスの頻度は極めて少なく、原の辻を経由するバスは一日に数本しかないので、バスダイヤとにらめっこしてパズルを解くか、タクシーやレンタカーを利用することになります。

 
 路線バスを下車したところにあるのが、原の辻ガイダンスで、原の辻一支国王都復元公園のガイドのために作られた施設です。原の辻遺跡の発掘の歴史や復元公園整備の記録が展示されています。また、壁には壱岐でよく見かける鬼凧が飾られていました。これは、昔に壱岐で人々を苦しめていてた悪毒王という鬼の首領の伝説に基づくもので、都から派遣された若武者に首をはねられて、首が天高く飛んで行ったという言い伝えを凧にしたものでしょうか。

 
 
 
 
 歴史公園は、原の辻ガイダンスの建物とは道路を挟んで東側の、少し高くなった台地の上に南に向かって開けていて、環濠集落は東西に350m、南北に750mの大きさで、この集落の東側に魏志倭人伝に記述されている国境警備の役所があったと推定されています。また、集落の北西には日本最古と言われる船着き場の跡も残っているそうですが、現在の幡鉾川沿いに海に出ていたのでしょうか。

 王都復元公園は、時代は原の辻遺跡よりもっと古い遺跡ですが世界遺産の青森にある三内丸山遺跡のような感じです。発掘調査で見つかった柱の跡などから、建物の規模を推定して復元したと思いますが、三内丸山遺跡の時も思ったのですが、建物の高さ方向はどうやって推定したのでしょうか。こちらでは高床式の倉庫のような建物が多く復元されていたようです。また、復元住居の中には、かつて住んでいたであろう人々の人形も復元されていて、その様子が、なんとはなくほほえましく思いました。

 
 原の辻の発掘調査で発見された多くの石器や土器などの出土品は、復元公園の北北東1.5km程の標高60mの丘の頂上にある一支国博物館で保管展示されています。独立峰のような丘で、博物館の展望台からの景色は雄大です。復元公園も、それぞれの復元家屋ははっきりはしませんが、その大きさが把握できます。展示品はさほど多くなかったようで、弥生時代の原の辻遺跡からの出土品に加えて、古墳時代の双六古墳などから出土した青銅器などでした。三内丸山の博物館でも、バックヤードにおびただしい収蔵棚に置かれた出土品の多さに驚かされましたが、一支国博物館でも巨大な収蔵棚に多くの出土品が置かれていて、整理が進むと新しい発見があるかもしれません。

 
 一支国博物館の展望台から、復元公園都は反対側の海の中に小さな島が見え、何やら鳥居も立っています。丘を下って2.5km程先にあるのは小島神社で、沖合200m程の直径が50mほどの島に建つ神社です。この小島は壱岐のモンサンミシェルと呼ばれていて、干潮の時にだけ陸から歩いて渡ることができ、満潮時には海に漬かっている鳥居のそばを通って、島のてっぺんにある神社に参拝できます。

 原の辻遺跡では、かろうじて魏志倭人伝という文字情報が残されていますが、我が国の文字情報は古事記や日本書紀を待つことになります。それ以前の歴史は、出土したり遺跡の調査で現れる地面など、物理的なものがすべてで、この物を頼りに玄室がどうであったかを推定することになります。時代の推定には放射性炭素を使うことがよく知られますが、物理、化学の分野での最新の技術が総動員されるようです。それでも、曖昧さは残り、哲学的な推論で、仮説が立てられ、論戦にまで発展しています。コンピュータの分析手法の一つにインテリジェントマイナーというのがあり、一間関連性が無い事象の間に、ある関連性が存在することの発見に使われます。自動改札の通過データが、本人に無断で売り買いされているのは、この解析のためのデータの一つです。考古学でもこのような解析手法が使われているのでしょうね、おそらく生成IAは使われていないと思いますが。

壱岐の中で旅客船ではなく漁業の港として栄えている勝本浦には海に沿って弓なりに通る旧道沿いに平入りの古民家が軒を連ねます

2024-02-11 08:00:00 | 日本の町並み
 室町時代に始まって江戸時代まで続いた朝鮮通信使の最初の寄港地が対馬でした。対馬には通信使ゆかりの施設が残り、現在も韓国の観光客が島中にあふれている感じがします。この通信使一行は、港伝いに大阪まで行って、最後は江戸まで到達していたようですが、今回は通信使が対馬の厳原の次に寄港をした壱岐の勝本を紹介します。

 壱岐は北側にある対馬が南北に長いサツマイモのような形をしているのに対して、ジャガイモのような丸い形をしています。いくつかある港のうち、最も開けているのが南西にある郷ノ浦で、島内の路線バスの大部分は、この郷ノ浦を起点にしていますが、バスの本数はきわめて少なくて、最も頻繁な路線でも2~3時間に1本の割合です。路線バスのメインは郷ノ浦を出て郷ノ浦に戻る一周路線で、右回りと左回りがあり、ほぼ中間にあるのが島の北端の勝本です。壱岐の中で対馬から最も近い港なので通信使の2番目の寄港地になっていたのかもしれませんが、対馬と違って、使節使関連の遺構は見当たりませんでした。

 
 
 壱岐には九州からや対馬からの客船が入港する港は3港ありますが、勝本港は基本的には漁港なので客船は入港しませんが、辰の島行きの観光船が出ています。この辰の島は、玄界灘に浮かぶ無人島で、夏の間は海水浴客でにぎわうようで、海水浴客用の施設も用意されているようです。海水浴シーズン以外でも魅力的な島で、海の色が絶品なのです。また、上陸してハイキングで行く蛇の谷の絶壁も一見の価値ありで島の周りを遊覧して上陸するユウランコースはお勧めコースの一つです。ただ、蛇の谷の絶壁は高所恐怖症の筆者は少々怖かったのですが。

 
 
 
 
 
 
 この勝本浦は、朝鮮通信使の寄港地というだけでなく、秀吉の朝鮮出兵の補給基地として、また江戸時代には鯨量で栄えた壱岐の中では早くから発展した港だったようです。最近ではブリやイカなどの沿岸漁業の基地といて潤っているようです。この、勝本浦の古い町並みですが、漁港に至る旧道沿いに平入りの民家が軒を並べています。バスなどの大型車は、旧道より海寄りの道路ができて、この旧道には入ってきませから、川越のように車を気にしながら散歩する必要はありません。この町並みでは朝市が観光客を読んでいるようですが、訪問した時は昼前だったので、ほぼ店じまい準備状態でした。ちょうど、近くの神社のお祭りだったようで、万国旗が道路を横切ってまで飾られていて、ちょっと古い町並みにはそぐわない風景の感じもしました。

 壱岐の島内を走る路線バスは過疎化に加えて運転手不足が追い打ちをかけて、路線の維持が難しいと乗車した運転手の方が話していました。路線バスのマインルートと思われる一周路線でも、乗客は10人どころか数人で、途中で下車した後は乗客無しで走り去っていました。路線バスが不便だから、自家用車を利用し、そのことが乗客の減少を招いて、バスの本数が減って、さらに不便になるといった悪循環です。無人運転の技術が進んでいますが、田舎の細くて曲がりくねった道路で、どこまで安全に走れるのか疑問です。観光客はレンタカーかタクシーを使い、住民は人が動かないで、物を動かすようにしたほうがいいのかもしれません。