因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

シアターコクーン・オンレパートリー2016 『るつぼ』

2016-10-24 | 舞台

*アーサー・ミラー作 広田敦郎翻訳 ジョナサン・マンビィ演出 公式サイトはこちら シアターコクーン 30日まで その後大阪・森ノ宮ピロティホール 
 『るつぼ』は、新国立劇場での宮田慶子演出の舞台が記憶に新しい。当然のこととはいえ、翻訳、演出、出演俳優が変わると、舞台はこうも変容するものか。絶対的な良い悪いではもちろんなく、単純にどちらが好き、そうでないでもなく、翻訳のちがいが生むことばの味わい、演出家の冒険、献身的な俳優の姿勢を堪能できるのは、観客として何と幸せなことか。とくに自分は堤真一が本作のジョン・プロクターを演じることを長いこと願ってきたから、その夢が叶ったという点でも喜ばしく、幸せな3時間であった。

 雷鳴とも猛獣の雄たけびとも聞こえる不気味な音が響くなか、森の中で少女たちが焚火を囲み、踊り狂う。戯曲にない場面であり、ジョナサン・マンビィの演出は、冒頭から容赦なく観客を異様な世界を提示する。これは只事ではないと、見る者を震撼させる。劇中では繰りかえし「子どもたちが森の中で踊っているのを見た」と語られる。実際に見ていない人々の困惑や恐怖を前に、観客は冒頭からその恐ろしげな光景を見せつけられたのだ。この効果は大きい。黒田育世の振付はまさに狂気じみておどろおどろしく、本作のイメージを強烈に印象づけることに成功した。

 ほかにも、知らず知らずのうちに抱いていた『るつぼ』のイメージが変容する箇所がいくつかあった。ひとつはレベッカ・ナースである。人々から厚く信頼され、尊敬される敬虔なキリスト者ある。彼女については、たとえば南美江のような女学校の校長先生風のイメージを強く抱いていた。宮田慶子演出では佐々木愛で、南とはタイプがちがうけれども、知的で上品なイメージはゆるぎない。今回のレベッカは立石涼子である。声や話し方はぐっと庶民的であり、女学校の校長先生というよりは、何でも相談できる保健室のおばちゃん先生風である。しかしながら何かというと浮足立って動揺する町の人々の中で、「どの子もみんなおかしな時期がありましたよ」と言ってのける場面に、度胸の良さを感じさせたのは立石の個性であろう。終幕、処刑される朝、思わずよろけながら「朝ご飯食べなかったから」とつぶやく場面は、誇り高い女性が最後にほんの少し強がりを言っているようで可愛らしく、ユーモアすら感じさせた。ささやかだが、嬉しい発見である。

 同じ時期に観劇した文学座の『越前竹人形』について、改めて考えざるを得ない。今なぜこの作品を上演するのか、見る者に何を伝えたいのかを明確にし、次はどうすればそれが伝わるかを考え、示すこと。それがいま現在の観客に向けて古典を上演する意味であり、演劇のおもしろさであろう。演出家のなかには戯曲じたいを変える人もある。しかしそれは禁じ手だ。変えずに変える。一種の矛盾であり、困難なことであろうが、不可能ではないはず。

 ジョン・プロクターは署名を拒否し、誇りを取り戻して処刑台に向かう。しかし悪魔を見たと虚偽の告白をし、後ろめたさに苦しみながらそれでも生き延びようとするプロクターもまた存在し得るのではないか。そして生きる選択をしたプロクターもまた、自分は愛したいと願うのである。いや、堤真一だからということではありません。ゆるぎなく構築された戯曲であってなお、観客に「あり得たかもしれない物語」を想起させる。重苦しくやりきれない物語でありながら、かすかな「夢」や「希望」を抱かせてくれる。『るつぼ』の新たな魅力、凄みを感じとることができたということである。まことに嬉しい一夜であった。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 劇団唐組 第58回公演『夜壺』 | トップ | 文学座創立80周年記念公演『... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

舞台」カテゴリの最新記事