因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

MSPインディーズ・シェイクスピアキャラバン 第1回公演 セミリーディング『クレオパトラ』

2016-08-27 | 舞台

*ウィリアム・シェイクスピア原作『アントニーとクレオパトラ』 島村抱月脚色『クレオパトラ』 公式ツイッターはこちら 早稲田どらま館 28日で終了
MSPとは、明治大学シェイクスピアプロジェクト1) のこと。今年で13回目を迎える大学を挙げてのシェイクスピア作品上演プロジェクトを指す。そしてMSPインディーズ・シェイクスピアキャラバンは、「明治大学シェイクスピアプロジェクト出身者によるシェイクスピアともっともっと遊びたいキャラバン隊」の略称である。
 明治大学のシェイクスピアプロジェクト出身者の卒業生も現役生も集まれ。もっともっとシェイクスピアでたくさん遊ぼう、少々羽目を外しても、責 任は潤色監修の井上優(明治大学)准教授が取ります!ということなのかな。
 作り手の顔ぶれには、大学卒業後も劇作家、演出家、俳優として活躍する方々が多 く、それがこの秋に予定されているMSP第13回公演『Midsummer Nightmare』(『夏の夜の夢』と『二人の貴公子』の連続上演とのこと)に参加する現役の大学生といっしょにひとつの舞台を作り上げるというのは、 大変な労苦と同時に喜びがあったことと思う。

 大正時代、島村抱月が松井須磨子のために上演した『クレオパトラ』を、抱月への敬意を込めた『大正浪漫編』と、抱月への挑戦状と銘打たれた『平成妄想編』が交互上演される。同じ戯曲が座組みによってどう変わるのかが大きな見どころだ。さらにもうひとつは、「セミリーディング」という形式である。俳優が台本を持って戯曲を読むことを通して、本格的な上演とは異なる戯曲そのもの魅力を伝えたり、逆にリーディング形式を逆手に取って、本格上演よりも濃厚に演出家の意図を反映させたりなどなど、功罪ある形式である。それに「セミ」が加わるとどうなるのか。

【大正浪漫編】新井ひかる(空かると)演出
 登場人物は羽織袴の書生や女学生、学ランの学生、着物にフリルのついた白エプロンの女中たちと、まさに大正ロマンの趣向で繰り広げられる。立派なソファと椅子がいくつか、奥にはガラス障子の舞台美術など、セミリーディングとは言え、まことに凝った作りである。そこまで作り込んだ舞台で、俳優たちはわりあい律儀に台本を読む。基本的な「リーディング」の形式を踏まえつつ、学生の格好をした3人の若い軍人たちが、「俺にもよこせよ」といった感じで1冊の台本を取りあいながら読んだり、複数の役を兼ねて演じる俳優が多いため、若干わかりにくくなるところはあるが、「抱月への敬意を込めて!」のサブタイトルには、並々ならぬ挑戦の心意気が込められている。

 占い師や奴隷などを兼ねる串尾一輝(青年団)が、終盤では黒いスーツでシーザーを演じる。アントニーの自死に、取り乱した心を懸命に抑えて誇り高く対応しようとするクレオパトラに、冷徹なビジネスマンのように接する。クレオパトラも後を追ったあと、客席中央通路にアントニーが登場してト書きを読みはじめる。愛し抜いたクレオパトラの亡きがらを抱きしめるように。しかしシーザーが何の感情もなくそれを遮ってト書きを奪う。幕を引くのは自分だ。勝ったのはシーザーだと宣言するように。

【平成妄想編】川名幸宏再脚色・演出
 俳優たちがラフなスタイルで三々五々稽古場を訪れ、ストレッチなどをはじめる。公演を控えた稽古場で、立ち稽古の様子を舞台にのせるという趣向である。はじまる前に川名幸宏が中央に立ち、今回の舞台作りや演出意図などの解説をして、開幕だ。
 はじめて観劇したMSPの舞台は、川名の演出による『冬物語』であった。また川名が作・演出をつとめた劇団→ヤコウバス(2015年12月をもって活動休止)の舞台(1)も、さまざまに思い出しながらの今回の観劇となった。とくに後者の舞台を観劇した際と同じことを、今回も感じた。開幕前に観客へ解説することである。結論から言うと、なくてもよい。リーディングについてどう思ったか、何を考えて「3日目の立ち稽古の様子」という舞台を作ろうとしたかなどは、舞台そのものから感じとりたい。『平成妄想編』はそれが可能な舞台である。

川名のブログには、稽古中の模索の様子や、本番中に起こったアクシデント(こんなことが起こるのですね!)を乗り切ったことなどが率直に綴られ、川名の戯曲の読み込み方や 演出プランの構築が緻密で丁寧であること、俳優を尊重し、何が起ころうと乗り切る強さを持っていることが伝わってくる。だからこそ「本編」から思い切り走りだす舞台を、ぜひ見たいのである。

 これは2本どちらにも感じたことだが、登場人物が激して叫ぶように台詞を言いあう場面、とくにクレオパトラ役の女優さんの元気が良すぎ、聞きつづけることが辛かった。現代の俳優が現代劇として演じているにしても、エジプト王国の女王なのであるから、たとえアントニーへの愛のあまり取り乱した場面であっても、もう少し抑制した口調で聴きたいのである。たとえジャージの稽古着すがたでも、いやそうだからこそ、衣裳やかつらなど「モノ」に頼らずに女王の風格を見せることは可能ではないだろうか。

 お小言のようになってしまったので、嬉しかったことを記す。『平成妄想編』では、使者の最後の台詞が終わって、演出家が「はい」と合図をする。その直後、使者役の丸山港都が「ふう」とひと息ついて素にもどったとき の空気の変容にぐっと心を掴まれた。舞台と客席がともに過ごした時間が終わったという安堵と淋しさが一気に押し寄せる切ない瞬間である。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ハイリンドvol.17 『窓』 | トップ | 文学座有志による自主企画公... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

舞台」カテゴリの最新記事