因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団桟敷童子『紅小僧』

2013-11-14 | 舞台

*サジキドウジ作 東憲司演出(1,2) 塵芥美術 公式サイトはこちら ザ・スズナリ 24日まで
 劇団のwebサイトをみると、初日から千秋楽まで全日程で完売の由、たいへんな人気である。
 筆者最大の関心は近藤正臣である。テレビや映画でよく知られている、いわゆるスター俳優が下北沢のスズナリの舞台に立つことは想像しにくい。いったいどんなきっかけで?当日リーフレットに掲載された東憲司の挨拶文を読んで納得した。18年前、ある商業演劇公演において当時駆けだしの音響オペレーターだった東を、主演の近藤が食事に連れ出してくれたというのだ。やがて劇団桟敷童子を旗揚げし、近藤はその公演をみてたいそう喜んだという。それから石川さゆり特別公演の作・演出を2度にわたって東が行い、近藤はその舞台に出演した。そして今日、桟敷童子への客演が叶ったというのである。
「近藤さんはある意味、僕にとって恩人であり、師匠であり、そして厳しい観客である」

 何でもそうかもしれないが、演劇をつくるとき、どのような人と出会えるかは非常に重要なことと想像する。多方面に人脈をもつ人と知りあえれば、仕事につながる可能性は高い。しかし東と近藤のまじわりは、仕事の枠組みを越えて、同じ演劇という魔物にとりつかれた者同士が「もっとおもしろい舞台をつくろう」という熱意でいっそう強く結びついたものではなかろうか。
 東の挨拶文は、自分を引き立て、劇団に目を掛けてくれた近藤正臣への感謝とともに、「あの近藤さんとぜったいにいい舞台を作る」という熱意に溢れており、これからはじまろうとしている最新作への期待をますます高めるものであった。

 昭和初期、九州地方と思われる山奥の村で神隠しを恐れる村人たちが、山の神を鎮めようと悪戦苦闘をくりかえす。そこにずっと昔、神隠しにあったと思われるひとりの少女が現れた。

 公演案内のDMには「劇団員の総力をあげて渾身の舞台美術を創り上げます」とあり、そのことばどおり、スズナリの小さな舞台によくぞここまで作り込んだと驚嘆した。それはコンピュータやCGなどの専門技術を駆使した大掛かりなものではなく、つくった人、それを動かす人の汗の匂いがしてくるかのようなものだ。手づくり感覚や温かな手触りというには迫力がありすぎ、劇団桟敷童子では、舞台美術があたかも劇団員のひとりのごとく血肉ある生々しい存在として、客席に迫ってくるのだ。

 これははじめて観劇した『海猫街』でも感じたことだが、開演前、終演後ともに劇団員俳優スタッフみなさんが観客一人ひとりに対して、じつに丁寧で熱のこもったことばと態度で迎え、送りだしてくださることだ。ああ、来てよかったと思えるのである。カーテンコールでは出演した若手俳優がアンケートへの協力を呼びかけ、出演者を一人ひとり紹介する。ぶち切れそうな絶叫調である。そんなに大きな声でなくてもじゅうぶん聞こえるし、これが演出によるものとは思いたくないが、いやもうあれこれ言うのは野暮だ、その意気で行け!と拍手を贈りたくなるのだ。

 桟敷童子公演では劇場まわりに幟が立ち並び、すでに衣装をつけて化粧をほとこした俳優が観客を誘導するなど、まがまがしいアングラの匂いがする。それと同時にいわゆる商業演劇の「こてこて」感もたっぷりあって、その劇世界は演歌的でもある。つまりさまざまな要素がぶつかりあい絡みあいながら、桟敷童子独自の演劇を構築しているのだ。ほかでみることはできない。
 各人物の設定や背景、造形には既視感があり、物語の展開にも意外性はあまり見いだせない。また前回の観劇と同じく、劇中で女優のからだをみせることには強い抵抗がある。はっきり言う。その必然性はない。
 しかしそれらを補ってあまりある桟敷童子の魅力をたっぷりと味わい、足が地に着かないほどの高揚感に満たされて晩秋の劇場をあとにした。
 遅ればせながら「舞台俳優近藤正臣」をみることができた。それも桟敷童子の舞台、小劇場のメッカ、下北沢のスズナリで。これは自分にとって忘れることのできない演劇体験となった。

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BeSeTo演劇祭/鳥の劇場『セールスマンの死』

2013-11-10 | 舞台

*アーサー・ミラー原作 倉橋健翻訳 中島諒人演出 劇団サイトはこちら 新国立劇場小劇場 10日で終了
 第20回BeSeTo演劇祭の棹尾を飾る舞台だ。劇団が2010年12月に初演した作品を、国際共同作品として再演した。しかも日本、中国、韓国の三カ国の俳優が同じ舞台に立ち、自分たちの国のことばそのままで台詞を発するというから、いったいどんな『セールスマンの死』になるのか。
 今年の冬、文学座による同作品をみたとき、「このつぎにこの作品をみるのはいつになるだろうか」と思ったところに今回の公演、それも想像もつかない構成や演出になるらしい。強い関心を持って劇場に向かった。

 黒を基調とした舞台美術はいたってシンプルだ。家の形の枠が手前と奥にあり、中央には大きなテーブルと椅子、少し離れたところにソファ?と小さなテーブルも置かれている。舞台両サイドにモニターが設置され、台詞の字幕が映し出される。たとえば主人公ウィリー・ローマンを演じる俳優が中国語で台詞を言うと、字幕は日本語と韓国語、妻のリンダ役は韓国人女優で、その場合は日本語と韓国語が・・・という具合である。

 

 このシステムは、三カ国の俳優が舞台に立ってそれぞれの言葉で話すというつくりにおいては極めて当然の処置であり、客席に対する最大公約数的な配慮であると考える。
 しかしながらこの流れを身につけて、劇の空気に心身を委ねるのはなかなかにむずかしいものがあった。字幕を読もうとすれば演じる俳優の表情やからだをみることができない。人物が日本語を話している場面なら集中できるかというとそう単純ではなく、中国語の父親に、日本語の長男ビフ、韓国語の母親のやりとりをもらさず聞きとり、目にも焼きつけるのはちょっとした「作業」レベルである。本作をみたり読んだりして、人物の性格や配置、話の流れがある程度、いや相当程度頭に入っているのでなければ、今回の舞台をじゅうぶんに味わうことはむずかしいのではないだろうか。
 本来ならローマン家には息子がふたりいる。兄のビフ、弟はハッピーだ。それが本公演においてはビフひとりとなった。一筋縄でいかないのが、34歳になった現在の彼に加えて、高校生のころの彼、さらに少年時代の彼と、じつに3人のビフを登場させているのである。
 複数のビフに弟ハッピーの役割を担わせていると思われるところはまったくなく、現在と過去を行き来する物語の構成を反映させる意図とも考えられる。
 これが効を奏していたかの判断はむずかしい。ちがうことばを話すとはいえ、父親と母親がじっくりとひとつの役に集中しているのと同じように、やはりビフにも10年以上にわたる年月の流れ、そのあいだに生じた父親との確執をじっくりと演じてくれたら、と願ってしまうのである。

 本作にはあとふたりの女性が登場する。劇中の人物ではなく、『セールスマンの死』をみにやってきた観客という設定だ。服装やメイク、話すことばはほとんど関西の漫才コンビのようであり、題名の『セールスマンの死』を、「タイトルでネタばれやんか」と実に率直な発言をしたり、とてもおもしろい。ローマン家の人々に対しても「お父さんがんばりや、息子しっかりせい、奥さん気持ちわかるわ」といった具合に、世界的な劇作家アーサー・ミラーの名作もなんのその、自分たちの日常生活の感覚で遠慮なくぶった切る。
 胸がスカッとするところもたしかにあるが、やはりとってつけたような印象は否めない。観客の存在、作品への批評を盛り込む意図が、劇世界を深め、広がりを持たせるためには、もう少しちがう切り口があるのではないか。

 

 

 試みとしては非常に意欲的であり、刺激に満ちた舞台であった。カーテンコールにおける出演者の表情はとても晴ればれと明るく、作り手の喜びが客席に伝わってくる。このような雰囲気をいつもの新国立劇場で味わうことは少なく、これまでBeSeTo演劇祭に足を運ぶことはほとんどなかった筆者には、非常に新鮮な演劇体験であった。
 それだけにわずか2回の公演はいかにも惜しい。また前述のように舞台の構成や演出面においても「もっと、まだまだ」と欲が出るのである。この悲しくやりきれない物語がなぜ半世紀以上たってなおわたしたちの心に響くのか、悲嘆に満ちた人々の救いはどこにあるのかを、もっともっとみせてほしいのだ。

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時間堂『森の別の場所』

2013-11-05 | 舞台

*リリアン・ヘルマン作 黒澤世莉翻訳、演出 公式サイトはこちら シアター風姿花伝 11日まで 11月30日、12月1日は大阪のin→dependent theatre 1stで上演
 わが国では知られていない世界の名作戯曲を、「時間堂が勝手に発掘しスポットを当てる新シリーズ」であり、【埋もれてしまった名作戯曲】×【時間堂の瑞々しい演技】=【力強くて面白い演劇】(いずれも公演チラシより)という方程式が成り立つというわけだ。
 黒澤世莉のこれまでの演出作品をふりかえると、古今東西じつにさまざまな作品を手がけていることがわかる(1,2,3,4,5,6,7,8)。作品に対して全力でぶつかりながら、肩の力を抜いた自然体のところもあって、みるほうも「3時間の巨編に挑戦だ」などと必要以上に気負わずに、ゆったりした気持ちで向き合えるのだ。それはこまごまと作り込まないシンプルな舞台美術や、若い俳優が中心の座組み、外国の作品であっても鬘やメイクが自然なつくりであることも理由であろう。

 さて今回の『森の別の場所』は1880年代、南北戦争が終わったあとの南部アメリカのある家族の物語である。南北戦争は1861年から1865年までアメリカがふたつに分かれて戦った内戦である。社会科の授業では奴隷制が大きな理由であると教わった記憶があるが、公演チラシに折り込まれた黒澤世莉による「よくわかる紙」によれば、自由貿易の南と保護貿易の来たの経済戦争の側面も大きいとのこと。これ以降米国が関わったどの戦争よりも多くの死者が出て、しかも同胞で争ったのであるから、人々の心身に与えた打撃は計り知れまい。

 本作にはふたつの家族が登場する。南北戦争によって財をなしたハバード家、没落したバグトライ家である。夫と妻、親と子どもたち、恋のいくつか。いまだ戦争の傷跡に苦しみながら、一人ひとりの思惑が絡み合い、決裂するまでを描く3時間の舞台である。

 たしかに上演時間は10分の休憩をはさんで3時間だが、いわゆる「大作」という趣はない。非常に地味な家庭劇である。舞台設定もハバート家のリビングやポーチから動かず、大がかりなセットを組んでいるわけでもなく、人々は『風と共に去りぬ』のような裾の長いドレスや軍服を身につけていることでどうにか外国の物語だと思わせるくらいで、黒人の使用人たちも顔を黒く塗ったりしていない。

 ふたつの家族の誰もが一筋縄ではいかない性格の持ち主であり、抱える過去や背景も複雑だ。いま目に見えている表情や彼らが発することば、交わすやりとりには名家の歪んだプライド、成り上がりの負い目、相手(親、夫、妻、恋人などすべての関係)に対する屈折した愛憎などが見え隠れして、観客としては観劇の初期段階における「情報収集」に神経を集中させねばならない。
 観客に必要な情報を与え、劇世界へスムーズに導くために、俳優の台詞はもちろん演技している全身のありようは非常に重要である。ここで自分はつまづいた。

 本作は黒澤世莉がみずから訳した上演台本によるものである。おそらく古めかしい言い回しであったところを現代日本の話し言葉に置き換え、俳優も観客も日ごろ見聞きし、使っていることばによって、この物語をより身近にとらえようという意図があったと思われる。
 しかしながら俳優のこしらえは地味で控え目とはいえ、現代とは大いに異なる時代劇風のつくりをしており、女性が「ママ、遅いよ」という中性的な語尾で話すのには違和感を禁じ得ない。「どひゃー」や「超◎◎」、「マジ」に至っては逆効果ではないか。

 ハバード家次男のオスカーが恋人である娼婦のローレットに「誰もお前のことなんか知らないってていでいろよ」と言い、彼女は「ハバード家の連中と同じくらい立派だってていでいろ?」と激しく聞き返す。「ていでいる」とは「体である」あるいは「態でいる」であり、外からみた様子、外部の人にみせかける様子のことだ。日常会話でよく使われて耳にするほどではなく、どちらかと言えば古く、自然に使うには少々むずかしい言い回しではなかろうか。
 そこを本作では敢えて使った。原作戯曲がどのようであるかはわからないが、たとえばこれを「誰もお前のことなんか知らないって風にふるまえ」や、「ハバード家の連中と同じくらい立派だって見せかけろ?」。
 ああ、自分の「翻訳」はまずいですねぇ。ともかく、もう少し耳なじみのよいくだけた言い回しであったら、この場面のやりとりの緊迫感は伝わっただろうか。
 自分は「ていでいろ」の台詞を聴いたとき、すぐに理解できなかった。ふたりの会話を聞きながら何度か頭のなかで繰り返し、ことばの意味、この場のやりとりで使われることの効果を考えた。多少めんどうな作業ではある。考えているあいだにも物語はどんどん進んでいくのだから。しかし現代風の言い回しですっと頭に入るよりも歯ごたえがあり、人物の心情に踏みこめたように思うのである。

 戯曲では63歳、59歳と記されているハバード家の両親を演じる俳優の実年齢ははるかに若い。父親役の鈴木浩司は作りすぎない演技で却って違和感ない。母親を演じたヒザイミズキは、夏にみたばかりのガラス玉遊戯『癒し刑』(大橋秀和作・演出)のイメージが強く残っており、さすがに無理があると思われた。しかし後半になり、彼女が心を病むに至った事件の様相、町を覆う噂の真相などが明らかにされるにつれ、実年齢よりはるかに年上の人物を演じている俳優の「これから先」のすがたがみえるかのような感覚が生まれたのだ。

 本作は複雑な背景をもつ家庭劇であり、心理劇、サスペンスの要素もあわせもつ。いわゆる新劇系の劇団や、外国人演出家を招いてのプロデュース公演であれば、役柄の年齢に近い俳優が配されて、自然な印象になるだろう。
 ヒザイミズキが演じる母親は、人物と演者の年齢歳という点においてたしかに不自然なところがあり、ヒザイもそうとうな努力をして本役に挑んだと思われる。しかしその努力が「無理をしている」のではない何かを感じさせたのだ。役を自分に引き寄せるのか、自分が役に近づくのか、その造形の実際や方向性はわからないが、年齢差の克服という面を越えて、ヒザイはこの役の本質をつかんだのではないか。

 3時間の観劇だったが疲れはなく、シアター風姿花伝から駅までの道のりも足どりは軽かった。前述のように新訳の台詞がしっくりこないところは多々あり、俳優の演技にもばらつきがあって、千秋楽までに精度を高める必要があると思われる。しかし長時間で、それもほとんど知られていない戯曲に取り組んだ試みには拍手をおくりたい。
 果敢に軽やかに。時間堂と黒澤世莉の今後が大いに楽しみである。

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劇団ロ字ック第七回本公演『退カヌコビヌカエリミヌヌ』

2013-11-05 | 舞台

*山田佳奈脚本・演出 公式サイトはこちら サンモールスタジオ 10日まで(1,2
 舞台には演技スペースほとんどを覆うくらいの大きな壁が作られている。その手前に下手から上手へゆるく上がる通路のようなものがあり、上がった先には自転車が1台。
 開幕すると一人の若い女性がさまざまな食事の風景から想像することを独白する。アパートの一室でひとつのカップラーメンを「おいしいね」と食べている恋人たち、高級フレンチレストランで会話もなく食事をする熟年カップルあれこれ。どちらのほうが幸せかはわからないし、他人がとやかく言うことではない・・・。彼女は自転車に乗り、通路を下る。そこへ賑やかな若者たち、スーパーのカートを押す従業員らしき女性たち、スーパーの弁当を下げたサラリーマン風の男性がぐるぐると行き交い、やがてリュックをしょったひとりの若者の独白が始まる。子どものころから聞きわけのいい子だったことなど、ひとしきり続いて次の瞬間、彼が大きな壁に倒れこむ。壁はひとかかえのサイズの段ボール箱が積み重ねられたものであった。その箱の壁が崩れてそこにあるのは、新宿から西武新宿線で25分の町にあるスーパーの従業員控え室だ。

 この一連の運びに「やられた」の感あり。決して大がかりな舞台美術でもハイテクを駆使したセットでもない。いい意味でチープである。ではいわゆる「温かな手づくり感」かというと、これもいい意味で暴力的なとこもあって、作り手が懸命に考えて工夫をこらし、観客を劇世界に引きずり込もうという気合いが溢れている。
 山田佳奈、劇団ロ字ック、やりやがったな。これからはじまる物語に思わず前のめりに。

 ロ字ックの舞台はこれで 3度めとなった。これまでの記事を読み直してみると、初回では終始絶叫調の台詞が聞きとれないことや、ヘアスタイルや服装、靴にいたるまで、ある人物の設 定として不自然であることなどにつまづいて、舞台のそのものかに入り込めないことが多かった。さすがに3度めになると慣れてきたのかとも思ったが、今回の 手ごたえは自分が歩み寄れたというより、やはり山田佳奈の作風が変化したためではないだろうか。

 たとえば舞台前面に通路をつくり、そこを人々がどんどん歩くこと。前回公演『タイトル、拒絶』においても、通路を人々が激しく歩く場面が効果的に使われており、これは山田が得意とする独自の手法であろう。本公演で早くも 冒頭で人々が歩きはじめたとき、「同じだな」と思ったのだが、時間の流れや空間の移動を観客に示すだけでなく、ひとつの情景としてきちんと観客に手渡そうとする意志が感じられるのである。

 もうひとつは登場人物の立て方、その造形である。おそらく24時間営業と思われるスーパーの従業員控室には、シフトによっていろいろなスタッフが出入りする。仕事のできない店長、店長よりできる中島くん、地元の高校の不良OBたち、ややかん違い風の純情少女、パートの主婦三人組、その仲間に入らないもうひとりの主婦松永さん、すっとんきょうな学生バイトのタマミ、ミスを繰り返す中年の鈴木さん。よくぞここまでバラバラのキャラを盛り込んだものだ。
 そのなかで冒頭に独白をする男女ふたり、女性は高校中退の無口な吉田さん(菅原佳子)、男性は高校OBたちから執拗ないじめを受ける小山田くん(満間昴平/犬と串)である。このふたりの関係や造形が物語の芯になり、群像劇とみせながら一人ひとりの心の奥底をのぞきこむような深遠な印象をつくりあげている。
 「ほかの人物に比べてあまりキャラが立っていないし、中途半端なポジションだな」と思われたパートの松永さん(主宰の山田佳奈が演じた)や、なぜか人々の流れにひとりだけ逆の動きをする弁当をもったサラリーマン風の男性が、終幕近くになって重要な役割を担っていることが示されるあたり、劇作家としての手腕や作劇のテクニックよりも、登場人物を単に劇を運ぶ駒ではなく、演じる生身の俳優ごと大切にしたいという作者の気持ちが感じられたのだ。

 あいかわらず(と言っては失礼だが)むき出しでけたたましく、執拗な描写の一方で、精魂込めて書きあげた台詞の一言ひと言を客席へ、いや観客の心へ直に届けようとする作者のすがたがみえるのだ。そこには「この私を理解してよ」と押しつけてくる強引で声高な姿勢はなく、むしろ淡々と静謐であり、余韻を残すものであった。

 劇作家の歩みはこちらが想像するほど平坦で容易なものではなく、逆行やときには退行、試行錯誤の右往左往があることだろう。自分が求めるような劇作家(具体的にどんな劇作家、という記述は避けるが)になってほしいとは願わない。山田佳奈自身がなりたいと思う劇作家、書きたいと思う作品をどんどんみせてほしいのだ。
 ロ字ックによって因幡屋もだいぶ強くなれた。次回どのようなものが来ても負けない者でありたい。

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因幡屋の11月

2013-11-04 | お知らせ

 とりいそぎ11月の観劇予定をお知らせいたします。
  俳句日記は後日あらためて。
劇団ロ字ック第七回公演『退カヌコビヌカエリミヌヌ』(1,2
 タイトルは合っているかな。2日に初日の幕を開けた。山田佳奈はもう誰にも止められない。
時間堂『森の別の場所』
 こちらも1日から上演がはじまっている。わが国では知られていない世界の名作戯曲を、「時間堂が勝手に発掘しスポットを当てる新シリーズ」(公演チラシより)とのこと。リリアン・ヘルマンの戯曲を黒澤世莉が翻訳、演出する。3時間の長丁場らしいが、がんばる。
BeSeTo演劇祭より 鳥の劇場『セールスマンの死』
 劇団が2010年12月に初演した作品を、国際共同作品として再演する。
劇団桟敷童子『紅小僧』 作・演出は東憲司(1,2
 あの近藤正臣が客演、下北沢ザ・スズナリに登場する。
*こまつ座第101回公演『イーハトーボの劇列車』 1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19)。
 みないではいられない大好きな作品。井上芳雄の宮沢賢治が実現するとは。
みきかせプロジェクトvol.5「青天井ポップコーン」(1
 今回は「塩味」=MU/バジリコ?バジオ、「甘味」=ゲンパビ1,2)/楽園王+オクムラ宅1,2,3,4)の組み合わせだ。
*演劇ユニットてがみ座第9回公演『地を渡る舟-1945/アチック・ミューゼアムと記述者たち-』(1,2,3,4,5
パラドックス定数第31項『殺戮十七音』(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17
 五七五の十七音のことか。はじめての荻窪小劇場だ。
声を出すと気持ちいいの会本公演『富士の破れる日』(1,2,3,4,5,6,7,8
 11月30日が初日。観劇は千秋楽になる。三鷹の武蔵野芸能劇場はこれがはじめて。

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