因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団チョコレートケーキ『あの日の記憶の記録』

2013-03-24 | 舞台

*古川健作 日澤雄介演出 サンモールスタジオ特別提携公演 公式サイトはこちら 新宿御苑サンモールスタジオ 『熱狂』と交互上演 31日まで (1,2,3
 1970年の話である。イツハク(岡本篤)は、イスラエルで妻とふたりの子どもと幸せな家庭を営んでいる。兄アロン(根岸茂尚)とも家族ぐるみで行き来しており、仕事も順調らしい。ある日息子が学校の歴史の女性教師の話をする。歴史研究家でもある彼女が、戦争体験者の聞き取りをしたいというのだ。イツハクは頑なに拒む。イツハクとアロン兄弟の故郷はポーランドであり、ふたりはアウシュヴィッツ収容所で特殊な任務についていた生き残りだったのである。

 演技エリアを3方向から客席が囲むつくりは『熱狂』と同じだが、本作では中央に食卓が置かれている。無口なイツハクと明るいその妻、食事をしながらも喧嘩をしてはたしなめられる息子と娘。どこにでもある平凡で幸せな家族の食卓の風景にはじまる。

 ずっと沈黙していた戦争体験者が重い口を開くこと、被害者としてだけでなく、加害者的な体験も併せて味わっており、それが彼の心を重く閉ざしていたことなどは、これまでさまざまなドラマや映画、ドキュメンタリーで扱われており、題材じたいには既視感がある。戦争体験者と未経験のその子どもたちのあいだの埋めがたい溝や体験者どうしの確執、あいだにたつ家族や第三者が存在することも同様だ。うっかりすると凡庸に収まりそうなモチーフに、劇作家の古川健はもう一歩踏み込んだ場面を作り、日澤雄介の丁寧な演出と、それに応える俳優陣の誠実な演技によって、作品はよりいっそう鋭く、温かみのあるものになった。

 劇の後半、家族に対して懸命の告白を終えた弟が、兄とふたりきりになって交わすやりとりである。ある親衛隊員(SSと呼ばれた。浅井伸治)のことを、弟は残虐非道だと長年憎んできたが、兄は彼に対して違う感情を抱いていた。これは弟にとって重大な危機である。憎悪する相手は悪人でなければ困る。自分の生きるよすがが失われるからである。この恐怖とも言える感覚、弟にも増して頑なに沈黙を守っていた兄が、それでも言わないではいられない気持ち。その激しく揺れ動く心情を表現して、弟役の岡本篤、兄役の根岸茂尚は立派であった。
 立派というのは少し妙な表現だが、台詞や演技が巧みであったとか表情がよかったということではなく、作品と演じる役に対して献身的に尽くす姿勢が感じられたのである。

 『熱狂』と『あの日の記憶の記録』のりょうほうに唯一登場する人物として、この親衛隊員がいる。前者では失業者からヒトラーの世話係にとりたてられたことが嬉しくてたまらない平凡な青年である。激昂して大議論をくりかえす他の人物のなかで、まだナチス色に染まり切っていないところがあって、それだけにこれから彼がどうなるのかが気になる存在でもあった。

 その彼が『あの日の~』で再登場した。前作のイメージをかけらもみせない冷酷な親衛隊員に変容しており、ほとんど別人である。この人物の設定や造形については長短あるだろう。前作よりさきに『あの日~』をみた観客には、彼がふたつの作品をつなぐ存在であることはおそらくわからないだろう。どういう順番で観劇するかによって、印象はことなるはずだ。
 後者において、彼はイツハクの苦悩が生み出した妄想のようでもあり、希望をもとうとするイツハクを、つねに絶望へ揺り戻そうとする。
 屈託のない青年がサイボーグのような親衛隊員に変貌したプロセスを敢えて描いていないこと、彼の過去のすがたを示す場面がないこと、しかし兄アロンの「あいつはほかのSSに比べてそれほど悪いやつじゃなかった」という台詞によって、彼の数年間を想像することも、演劇的感興のひとつと受けとめられる。

 イスラエルへの愛国心に燃え、国を守るためには死も辞さないという息子と、「正義とは人を悲しませないことだ」と悲痛な表情で訴えるイツハクは、これからも衝突を繰り返すだろうが、少しずつ歩み寄れると思われる。しかしユダヤ人の大量虐殺をイスラエルを他国から守るための神話にしようとする(このあたりはちゃんと理解できていない)女性教師の思惑は、最後まで交わらない。去り際にイツハクは握手を求めるが、女性教師は最後までその手を取ろうとしないのである。ここにもっと力点を置いた劇作もまた可能であると考える。

 終幕、慌ただしい朝が来て、子どもたちはいつもよりきちんと父親に挨拶をして学校にゆく。妻に対して「助けてほしい」と素直に言えるようになったイツハクも仕事に出かけた。無人となった食卓に柔らかな光がさす情景は、人類最大の殺戮があってなお、人は希望をもてることを示すものではないか。

 イタリア系ユダヤ人の化学者であり作家でもあるプリーモ・レーヴィの『アウシュビッツは終わらない-あるイタリア人生存者の考察-』(朝日選書)を久しぶりに開いてみた。本編よりも心に残っているのは、終章に併録された「若い読者に答える」において、「あなたの著書にはドイツ人への憎しみ、恨み、復讐心の表現がない。彼らを許したのか?」という問いに対する彼の答である。彼自身が自分の思想や行動をできるだけ理性に近づけたいと思っていること、憎しみは動物的で未熟な感情であるから・・・としたうえで、彼は憎しみという感情に対して、実に理性的な解き明かしをするのである。
 彼は収容所の生き残りを二種類に大別する。当時を思い出すことを拒み、避けるもの、うまく忘れることができてゼロから生きはじめるた者。舞台においてはイツハクがまさに前者であり、兄アロンが後者であろう。そしてレーヴィは、政治思想や宗教的確信、深い道徳的意識をもった生き残りにとって、「思い出すことは義務である」と断言する。

 もしナチスによる残虐行為がなければ、レーヴィはアウシュヴィッツに収容されることはなく、恐ろしい体験をせずに済んだ。しかしその体験があって書くべき動機や刺激を与えられ、人間と世界について考察し、学んだのである。彼の著作を読んだ人々もまたさまざまに考えたはずだ。想像を絶する体験をしながら、ここまで透徹したまなざしで自分の心をみつめ、分析できることに感嘆したが、レーヴィは後年みずから命を絶つのである。

 人間と世界とは、なぜかくも複雑で悲しみに満ちているのだろう。人が抱く憎しみは決して一枚岩ではなく、それを乗り越えるためにさらなる苦悩を背負わなければならない。しかし終幕で朝日に光る食卓と、それを囲む家族を思い出すとき、彼らは劇がはじまったときよりも幸せであると思いたいのである。

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