一泊二日で南信州へ出かけた。最高齢はたぶん七十代前半の方から、いちばん小さい人は生後八カ月の坊やまで合わせて約三十人がにぎやかに集う。温泉施設で汗を流したあとは、地元で採れた新鮮野菜を使ったおいしい手料理を囲む。星空を観察したり花火をしたり、墓場へ肝試しのナイトハイクもあり。
夜、離れで布団を敷きながら誰かがつぶやいた。「何だか映画のロケみたいですね」。
残念ながら天の川は見えなかったが、夏の大三角形や北斗七星、さそり座やカシオペアもみることができた。さらに山の向こうから月が煌々と照り輝きながら昇るさまに言葉もなく。翌日は川遊びのあと、大混雑の中央高速を通って帰宅した。渋谷駅の喧騒にしばし呆然。
無趣味で出不精なうえ、穴倉のような劇場にこもることが多い身にとっては、異空間にいるかのような感覚であった。
7月心に残った芝居は月末の一日に集中した。昼間の演劇集団円のドラマリーディング「岸田國士を読む」に続いて、夜は声を出すと気持ちいいの会の『黒猫』。観劇のはしごは疲労困憊が常であるが、この日は心身軽く、余力を感じるほどであった。夕刻から降り出した雨が、終演後には気持ちよくあがり、初日の盛況を寿ぐよう。
【本】
*ソーントン・ワイルダー戯曲(講談社「世界文学全集88」より)
『楽しき旅路』 8月に上演される劇団フライングステージの『ハッピージャーニー』の予習を兼ねて。
『長いクリスマス・ディナー』 昨年柴幸男演出をみたばかりだが、中野成樹演出の舞台が、タンタンの鮮やかな切絵とともにに心に残る。
『特急寝台』と『楽しき旅路』はいずれも中野成樹演出(1,2)をみているのだが、一度もみたことのない『小説なればこそ』が断然おもしろかった。前述の作品には進行役がいたり、登場人物がこの世からあの世へ旅立ったりと、ある意味で宗教的な到達点を感じさせるのだが、本作に描かれているのは現実世界次元で起こっていることのみだ。四人の登場人物がどんな性格なのか、どんな顔でどんな台詞の言い方をするのか字面から想像しにくく、小説家の妻の台詞を音読して「ひとりリーディング」を試みたりしたがやはりわからない。
恵比寿の「クリニックシアター」さん、次回公演に本作はいかがでしょうか。
*多和田葉子『アルファベットの傷口』(河出書房新社)
本書を手に取ったのは、演劇批評誌テアトロ掲載の新国立劇場で上演された『ゴドーを待ちながら』(岩切正一郎翻訳 森新太郎演出)に対する、菅直行氏のすさまじい酷評がきっかけである。今回の新訳への批判に始まり、「多和田葉子の『アルファベットの傷跡』(原文ママ)を見よ!あの小説は翻訳家の実生活の血だらけの格闘から生まれた。」とある。自分は舞台を大変楽しんだが、この批判によって、吸い寄せられるように本書を読むことになった。
翻訳業の女性が、異国の地で小説を訳している。現地の人々や小説のなかの人物、果ては原作者までがあらわれ、彼女を翻弄し追い込んでいく。描写も形式も独特で、なかなか世界を具体的に感じ取れないが、主人公の雰囲気としては中谷美紀あたりが出てきそうだ。
原本が消失して翻訳しか残っていない本もあるという話題になり、なぜそれが原本でないと分かるのかと問われ、彼女は「翻訳というのはそれ自体がひとつの言語のようなものだから、何かバラバラと小石が降ってくるような感じがするのですぐ分かる」と答える。また「作者はわたしなど必要としていない」と自暴自棄になる。どこまでが現実でどこからが幻想かはわからないが、彼女は言葉の海から逃げようとするも、海に入らざるをえないことを知っている。外国語に堪能な人を無条件に尊敬してしまうが、自分には想像も及ばない世界である。
読むうちにゆるゆると眠くなり、我に返ってまた読みなおしては熱帯夜の幾日かを過ごした。
そのほか室生犀星『蜜のあはれ』(国書刊行会)、松本清張『駅路』/向田邦子『最後の自画像』(新潮社)など。前者は7月19日に亡くなった俳優原田芳雄主演のテレビドラマ『火の魚』が収録してあったもの。後者は松本清張の原作と、向田邦子の脚色によって1977年に放送されたドラマのシナリオが併録されたもの。2009年、役所広司と深津絵里の共演でリメイクされたテレビドラマ『駅路』は素晴らしかった。原作と脚色の関係について考えるきっかけになりそう。
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