因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

鵺的(ぬえてき)第3回公演 『昆虫系』(改訂版)

2011-07-30 | 舞台

*高木登 作(1,2,3) 寺十吾(tumazuki no ishi) 演出 公式サイトはこちら スペース雑遊 8月1日まで 
 初演は2004年机上風景vol.10、埼玉県で起きた保険金殺人事件をベースにした作品である。
 わずかのスペースに補助椅子や丸椅子をひとつずつ増やし、客席は隣りどうしの腕が密着しあうほどぎっしり、当日券もキャンセル待ちの盛況である。

 場末のスナックが舞台横いっぱいに作られている。中央に地上に上がる階段、上手にカウンター、下手にソファ席。社長と呼ばれる男が保険業者とグルになり、借金で首が回らなくなった男たちを社員として雇い、彼らに膨大な保険金を掛け、スナックのホステスに偽装結婚させ、さんざんに弄び、虫けら同様に扱う。社会の闇、吹き溜まり、裏社会。金と欲にまみれた鬼畜である。
 

 これまでみた高木登の作品のなかで最も醜悪で陰惨な内容であり、描写であった。
 身も蓋もない表現になるが、この内容をここまでグロテスクに描くのはなぜなのだろう。
 醜悪でみじめで残忍な人間のすがたをリアルに描こうとしているのはわかる。公演チラシには、「暗い、不快だ、むずかしいと言われる自作の衝動の根源にあるのはたいがい義憤で、自分は観客と怒りを共有したくて書いている」と記されており、劇作家のモチベーションの持ち方として、大変まっとうであると思う。
 そして「だがそんな気持ちもつい相対化したくなるので、書いた当人にとっても意地の悪い作風になるのだ」と続く。これもわかる。怒り、それも義憤をそのままぶつけられると、みるほうとしては引く。自分を激しくつき動かす「何か」にそのまま流されるのではなく、冷静にあるいは冷徹に「何か」をみつめ、相対化したところに演劇が成立するのだと思う。それが「意地悪な作風」になるということも察しがつく。作者が聡明であり、創作に対して意欲的である証左であろう。
 自分の内面、心の動きに対してここまで客観的な作者の視点をもってすれば、今回の題材はもっと違う見せ方が可能になるのではないか。
 個人的な好みとして、暴行暴言や女優に際どい演技をさせること、嘔吐などの生理的反応をリアルにみせることに対して拒否反応をしているのではなく、作者の「義憤」「相対化」「観客と共有したい」という方向性が、自分の求めているものと噛み合わないのだ。「暗い、不快だ、むずかしい」というより、「違うんじゃないか」と思うのである。

 昨年秋発行の因幡屋通信36号で、第2回公演『不滅』について考えた。加害者が被害者をいたぶり続け、その諍いを扇動する者が絡む陰惨な物語に示そうとされている希望を見出したく、次回公演に備えようと決めたのだが、その意気ごみは残念ながら持って行き場のないものとなった。山崎哲でもなく土屋理敬でもなく、マキタカズオミでもない、現実の社会、実際に起こった事件に対する高木登の「義憤」が演劇的に昇華した舞台を、自分はぜひともみたいと願っている。 

コメント