*シャロン・ポーロック作 吉原豊司翻訳 稲葉賀恵演出 公式サイトはこちら 文学座新モリヤビル1F 24日終了
本作はちょうど10年前、劇団ハイリンドによる上演を見たことがあるが、ここにリンクするのが申し訳ないほど困惑しきりの体験であった。(あまり読まないでくださいまし→こちら)
1892年、アメリカのマサチューセッツ州のフォールリバーで、資産家夫婦が斧で惨殺された。夫婦の次女リジー(前東美菜子)が被疑者として捕らえらるが、10年後、無罪の判決を得て釈放される。そしてリジーは、親友である女優(内堀律子)とともに、あるゲームを始める。
リジーにとって、父のアンドリュー(大原康裕)は実の親だが、母のアビゲイル(つかもと景子)はその再婚相手である。姉のエマ(永川友里)は新しい母とどうにか折り合っているようだが、リジーは、自分を産んだあとに実母が亡くなった経緯もあり、自分自身を持て余しているかのように、周囲に反抗的な態度をとる。資産家といっても、その運営状況は思わしくなく、アビゲイルの弟のハリー(内藤裕志)が何かを企んでいる様子だ。アイルランド人医師のパトリック(木場允視)は妻子ある身で、リジーに思わせぶりな振舞いをする。
事件から10年経ったというのに、近所の子どもたちはリジーを揶揄する歌を歌いながら無邪気に遊んでいる。これはつまりリジーの事件が都市伝説化しており、周囲の大人たち、町の人々はいまだにリジーへの疑念が消えていないためと思われる。親友の女優とても同じなのか、「…あなたなの?…あなたがやったの?」と問いかける。
そして始まる「あるゲーム」とは、女優がリジーに、リジーが家の女中ブリジットに扮して、事件が起こるまでの日々を「再現」するものだ。これが本作の眼目である。舞台左右には赤い糸が張り巡らされ、人間の血管を流れる血を想起させる。上手にダイニングテーブル、下手にソファの置かれて演技スペースとなる。俳優は自分の出番が終わるたび、そこから出て、脇の階段や椅子に座って舞台を見守る。そのあいだにリジーの裁判の場面もあり、そこではリジーが本来のリジーに戻ったりなど、劇中劇的な構造のなかで時間や空間が交錯する。
作り手にとっては演じ甲斐があるであろうし、観客としても演劇ならではの楽しみ方ができる。物語が進むにつれ、あたかもリジーが二人いるかのように変容する様相や、「女優」が名前を持たないことも意味ありげで、もしかすると「女優」という人物は存在せず、リジーの脳内で再現劇が繰り返されているとも考えられる。出番が終わっても脇でじっと見つめている俳優は、役の雰囲気を纏ったままのときもあれば、どこか虚ろなときもある。裁判の傍聴人たちのようでもあり、作品の構造を視覚化した舞台美術、演出の手並みなど、見ごたえのある舞台であった。
ただ終演後にすっきりしない心持になることも確かであり、これは、劇中で両親に斧を振り上げるのは間違いなくリジーであるのに、なぜ無罪になったかがわからないこと、リジーでないとして、ほかの人物に強い動機が感じられないためであろう。稲葉賀恵は、2016年4月のアトリエ公演『野鴨』の緻密な演出が印象深い。このとき内堀律子はヘドヴィックを演じており、気負いのない自然な演技が今でも鮮明に蘇る。見るたびに違う顔に会える俳優であり、今回の女優(あるいはリジー)についても、別の角度からの切込み方、造形があるのではないだろうか。
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