*テネシー・ウィリアムズ作 吉原豊司翻訳 高橋清祐演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋サザンシアター 25日まで (1,2,3,4,5,6,7,8,9,10)
無名時代のテネシー・ウィリアムズが、1937年セントルイスのアマチュア劇団「ママーズ」のために、本名のトーマス・ラニア・ウィリアムズで書いた戯曲が本邦初演の運びとなった。本作にはジョセフ・フェーラン・ホリフィールドという共作者の存在があり、彼が書いた『ランプ』という一幕劇をベースに、ウィリアムズが長編戯曲に仕上げたと言われている。原稿が散逸していたために作品が出版されたのは2004年、それも元劇団員のひとりが持っていた上演台本がたまたま見つかったためだという。作者が亡くなって21年後のことである。
1927年からおよそ10年間のあいだ、アメリカはアラバマ州の炭鉱で、ある炭鉱夫一家と彼らをめぐる人々が貧困と過酷な労働、相つぐ炭鉱事故と会社の搾取に苦しみながら、懸命に生きる様相が描かれる2時間30分の物語である。
原題は「Candles To The Sun」だが、この「To」のもつ意味は非常に深く、作者が示そうとしたこと、託したいと願ったことがまさにこの一語に集約されていると思われる。
邦題の『蝋燭の灯、太陽の光』は覚えにくいこともあって、正直なところあとひと息しっくりこない印象があった。しかし公演パンフレット掲載の翻訳の吉原豊司の寄稿からは、翻訳者が作品を掌中の珠のように慈しみ、何とかして原作者の心を伝えようと誠心誠意向き合ったことが伝わってくる。演出の高橋清祐に寄せる信頼も強い。
石炭掘りひとすじに生きてきたブラム(千葉茂則)は仕事に誇りをもつ亭主関白な男だが、妻のヘスター(箕浦康子)もなかなか勝気で家を仕切っている。夫婦には息子のジョン、娘のスター(桜井明美)がいる。ジョンは数年前に家出したきり音信不通、スターも父親に逆らって恋人のもとへと走る。ブラムは暗い穴ぐらでの仕事がたたり、目が悪いらしい。
早朝の食事にはじまる夫婦のやりとりは毎日の日常の一こまであるが、そのなかにこの一家が抱えている問題、日々の不安、相手への不平不満がじつに自然に織り込まれていて、観客を一気に劇世界に引き寄せる。
彼らの住む町は炭鉱によって成り立っている。買物できる店は1軒だけ、それも炭鉱会社が発行する金券しか使えない。生活のすべてが会社に支配されているのである。あきらめて黙々と従うか、いつかこの町を出ると決め、わき目もふらずに働くか、この事態を変えようと命がけで社会に立ち向かうか。
いろいろな考え方の人々がぶつかりあい、そのたびに悲しみや苦しみを味わいながら決断し、行動を起こす。大切な家族の幸せを一心に願う心が小さな蝋燭の灯なら、そこから周囲の人々のこと、ひいては町ぜんたい、社会ぜんたいのことを、太陽の光がこの世を照らすように考える。題名が示す作者の願いである。
その象徴がブラム一家の長男ジョンの未亡人ファーン(日色ともゑ)だ。夫に先立たれ、幼いその忘れ形見ルークを連れて、一度も会ったことのない夫の両親の家を訪れる。雨に濡れて疲れ切ったその姿に心を打たれ、それまで「そんな女はぜったい受け入れない」と頑なだった母親のヘスターは孫を抱きよせてすぐ、初対面のファーンに同じ気づかいをみせる。
不自然なところのまったくない、心からの行動だ。ファーンを一目見て、裏表のないきちんとした女性だと見抜き、それまでの激しい怒りや疑念をすべて捨て去った瞬間である。
ファーンはその登場シーンで勝気なヘスターをそうさせるだけの何かがある女性だと、客席に示さねばならない。母親が息子の妻に求めるのは、息子を心から愛すること。それに尽きるだろう。ファーンはジョンを愛していた。それがわかったからこそヘスターは彼女を受け入れたのだ。日色ともゑの佇まいや声は控えめだが、ヘスターの豹変が不自然にみえないだけの魅力をみせる。ヘスターを演じた箕浦も一筋縄ではゆかない複雑な感情を辛抱強く、しかし自然に(ここがすごいと思うのだ)みせて心を打つ。
ベテラン俳優の技術や経験値だけでなく、作品そのものから力を得てのあの演技ではないだろうか。失礼ながらお二人とも役柄が設定された年齢からはそうとう年を重ねておいでのはずだ。しかしそのギャップをまったく感じさせない。無理な若づくりなどという小細工を一切せず、自分を作品にぶつける、あるいは委ねる、そして強く信じることが産んだ演技ではないだろうか。
ベテラン、中堅、若手が心をひとつにして取り組んで堅固な舞台を作り上げた。劇団の財産演目になる可能性をもった作品であり、初演から80年が過ぎた今でも観客の心に強く訴えかける力がある。観客もまた心を新たにして向き合いたい、そう感じさせる舞台であった。
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