*ウィリアム・シェイクスピア原作 翻訳・学生翻訳チーム・コラプターズ プロデューサー・関口果穂 演出・山﨑心 監修・青木豪 公式サイトはこちら(1,2,3)明治大学駿河台キャンパス・アカデミーホール 11日で終了
明治大学シェイクスピアプロジェクト(以下MSP)が今年上演するのは、15年前の第1回公演(その当時は「明治大学文化プロジェクト」と言った)の演目である『ヴェニスの商人』である。 学部も学年も越えた学生カンパニーは年々参加者が増え、今年は150名を超えているとのこと。学生劇団や学内演劇サークルではなく、大学が主催し、父母会や校友会などの強力なバックアップがあり、卒業生を中心としたプロの演劇人がワークショップ講師を務め、プロスタッフも関わるとはいえ、それだけに期待も大きく、プレッシャーもさぞかしと察する。
パンフレットに掲載の青木豪のことばが心に留まった。今回演出をつとめる山﨑心が悩みながら奮闘し、模索している様子に、「ただ、どうも山﨑さんには『どうしても見たい景色』があるようです。色々トライしているのだけれど、どうもそこに帰ってきてしまうアイディアがあり、そこには何の理屈も根拠もなく、生理的にどうも向かってしまう絵がある。僕はそこに、彼女の『強さ』を感じています」とのこと。「理屈」とは、言い換えると論理的な思考のもとに構築された演出プランであり、周囲からも理解され、客観的な有効性があって説得力があるものということであろうか。青木曰く、「理屈」のもつ怖さは、ある日突然、誰かの助言で変わってしまうところにあり、根拠なく惹かれるという「感情」は、揺らぐことなく持ち続けられるものであり、「山﨑さんにはそれがある」と断言している。
これは舞台の演出に限ったことではないだろう。自分に引き寄せてみれば、目の前の舞台について論理的に思考し、必要な文献を読んで理解し、きちんと構築された文章を書かなくてはならない、そうでなければ感想文ですらない!とずっと考えてきた。しかし自分には、どうしても心にひっかかる台詞、俳優の表情や声、舞台と客席に生まれる空気があり、揺れ動く自分の心というものから逃れられないのである。
さて『ヴェニスの商人』であるが、何とやっかいな作品を選んだものかと思う。とくに最後の裁判の場面など、人種差別、宗教差別的描写凄まじく、後味も良いとは言えない。
アントーニオ(西山斗真)という人物について考えてみる。主要人物でありながら、存在意義が曖昧で、結婚という大団円の輪に入り切れていない。冒頭からもの憂げであるが、その理由もはっきりしない。裁判に勝って命が救われた喜びと安堵はあるにせよ、将来への希望も感じさせない。誰とも寄り添わず、冒頭と同じ位置に佇み、冒頭と同じ群舞シーンを見つめる。もしや彼は…?という密かな疑問にみごとに応えているのが、MSP卒業生であり、今回ワークショップ講師をつとめている西村俊彦氏のブログである。
青木氏の挨拶文を読んだのは観劇前である。山﨑さんがどうしても見たい景色が、今回の舞台のどこなのか。わたしは自分の立ち位置から、「その意気で行け!」と密かに祈りつつ、舞台を見た。そして冒頭と同じくもの憂げに佇むアントーニオに当たっていた光が消えた終幕の一瞬、そしてカーテンコールで堂々たる風格でシャイロック役の安井秀人が登場して万雷の拍手を浴びたとき、「わたしが見ようとした景色」の手ごたえ得たのである。
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