*雨々アメ(仮)作・演出 長塚博士(楽園王 1,2)舞台監督/照明 公式サイトはこちら 日暮里d-倉庫 18日終了
風変わりな名のユニットの旗揚げ公演である。スタートと同時に、これから3年のあいだに5回公演を行い、しかも公演を重ねるごとに1ステージずつ増やすことを早々と発表するという気合の入れよう。今回の公演チラシや当日リーフレットいずれにも、2020年秋の第5回公演までのタイトルや日にちが掲載されており、自分たちの状況を客観的に判断し、創作活動のみならず、人もモノも多方面へ働きかけ、実現に向けて着実にことを進める実行力を備えたユニットであることは、公式サイトの「計画段階の話」には、雨々アメが劇作を始めるまでの経緯や、劇団運営の経済的な面までも丁寧に綴られている。今回の座組は、ついこのあいだ別の舞台に出演していた俳優、これが済んだらすぐにまた別の公演に出演する方々少なからず、大変な活躍ぶりである。
白い舞台の床には何も置かれていない。物語は盲目の私(7)が乗る車椅子を姉(駿河さん)が押し、ジョナサンでの食事のあとの散歩の場面に始まる。私(7)は盲目になってまだ日が浅く、一人歩きが十分にできずに足を怪我して車椅子に乗っている。姉妹ともにわりあい明るくしている。私(7)はいつのまにか眠ってしまったらしい。姉は近くにおらず、生まれつき盲目の少女・アリスが心配して声をかけてきた。
中途失明と生まれつきのそれと、どちらが不幸かを当事者同士が競い合う会話は、まことに深刻な内容であるにもかかわらず、両者が用いる例え(コージーコーナーのジャンボシュークリームや家なき子など)もあって、おもしろいやりとりだ。
次は天才医師と、夢遊病患者である私(8)と、手術を前にしたやりとりになり、主人公の私は、複数の人格を有した存在であることがわかってくる。私の次の()の数字はそれを意味するのだ。さらに、私(9)は「夢の中の私」であり、双子の弟(6。赤頭巾さんと名乗っている)がいたことも明かされる。雨々(アメ)の劇世界は、簡単な自分探しではなさそうである。
物語の構成や流れの輪郭が見えてきたが、上演の最中は話を把握するのにいささか苦心した。むろん簡単な謎解きではつまらないわけで、一つ解けたと思ったら新たな謎が生まれたり、そのつもりで見ていたらそうではなかったなど、混乱、翻弄されるのも観劇のひとつの楽しみ方ではある。
登場人物が客席に向かって物語の解説をし、反応を求めたりする場面がある。まずは来場の挨拶をし、「登場人物の一人です」と自己紹介、「今は台本の◎◎ページです」と途中状況を解説するのである。ここに劇作家の存在が、10人めの登場人物として劇中にその存在を「置いた」(的確な表現はほかにあるのかもしれないが)と思われる。
自己が分裂し、夢の中で殺人や自殺の危機がある私が、どうやって私自身になってゆくかに向かって、「台本の●●ページ、雑談で終わる」など、時間の経過、場面の変化も劇中で台詞として発せられる。
『言問う処女』を数日前に観劇したのは、今日の舞台を受けとめるための下地作りかと思われるような偶然であるが、この手法には、好みと評価が分かれるであろう。
劇作家自身が劇世界に飛び込んで、登場人物とともに歩き、考え、物語を動かそうとする試行錯誤の様相が、本作の核と思われる。むろん結末はきちんと台本に記されており、俳優はその台詞を発し、演じている。しかし生ぬるい予定調和や自分探しの自己完結物語に陥りがちな既成の作品に対して、独自の視点、切り口での創作を試みようとする心意気は感じられる。
客席への語りかけは、観客の緊張をほぐし、雰囲気を変えるには有効であろうが、劇の濃度や緊張、感興を削いでしまう面があり、一種の禁じ手でもある。堂々と「登場人物の一人です」と名乗って台詞を続けて構わない。
改めてウテン結構。いい得て妙である。どんな天気でも芝居を「決行する」気合いを、「雨でも結構ですよ」と、少々の困難に対しても、しなやかに軽やかに進んでいく彼女たちの宣言であろうか。どうかその意気で。
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