ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

76回目の終戦の日ー長雨が上がり青空の下の忠魂碑

2021年08月16日 04時59分48秒 | Weblog
  


 15日(日)、降り続いていた雨も上がり、久しぶりに青空が広がりまぶしい夏の日差しが戻りました。
 今日は76回目の終戦の日。加東市社の明治館(元加東郡中央公会堂)の広場にある忠魂碑に参りました。この忠魂碑は大正15年(1926)に建立されたもので、「忠魂碑」の揮毫は川村景明陸軍大将です。のちに元帥、在郷軍人会会長をつとめています。戦前はこの忠魂碑の前で在郷軍人会による春秋の皇霊祭に合わせて式が行われていました。
 中央の忠魂碑の両側の英霊尊名碑は戦後の昭和28年に建立されています。占領が終わり、西南の役から大東亜戦争まで郷土(旧社町、現在の社小学校区)から戦地に赴き戦死された英霊240柱余りの名が刻まれています。その中には母方の2人の叔父の名もあります。
 3枚の写真は、昭和28年(1953)の英霊尊名碑建立の記念。松が生い茂り忠魂碑を隠してしまった平成17年(2005)の写真。そして令和3年(2021)の写真です。
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五峰山を背に下滝野桜ヶ丘墓地ー軍人墓地と英霊供養塔

2021年08月15日 05時51分32秒 | Weblog
 

 14日(土)午前、雨の中を加東市下滝野の知人を訪ね、その足で五峰山への坂道を桜ヶ丘墓地に向かって車を走らせました。
 明日は76回目の終戦の日を迎えます。神戸新聞では昭和20年7月にあった米軍機による下滝野空襲についての調査記事を連載しています。このブログでも父の日記に記された空襲の記述を紹介しました。
 この桜ヶ丘軍人墓地については、この歴史ブログで平成28年(2016)5月8日投稿で紹介していましたが、下滝野にお住まいの長谷川純子さんから「英霊供養塔」のことをお聞きし、調べてみたいと思っていました。しかし、軍人墓地にはそうした塔は見当たらなかったような思いもありました。
 軍人墓地の少し上、五峰山の斜面に下滝野地区の桜ヶ丘共同墓地が広がっており、その下に駐車場があったのでそちらに車を進めると、何と墓地の北東の隅に小高い土盛りがあり、その上に石塔が建っているではありませんか。ああ、これが英霊供養塔かと思い、さっそく車を置いてお参りをしました。
 階段を上り、台石の上に建てられた大きな石碑を見上げると、上部に「殉国英霊」、その下には「供養之碑」と刻まれていました。碑の手前の右側に建立経緯を記した碑があり、次のように刻まれていました。

 この櫻ヶ丘は多可加東加西の三郡の中心なり 昭和二拾七年四月二十日一市三郡の英霊供養の為この地にて五壇護摩供を修す 尓来正に十五周年これを記念し日清日露第二次世界大戦の英霊六千余柱慰霊のため 茲に殉国英霊供養之碑を建立永く祀る
     昭和四拾貳年四月貳拾日
            願主  下滝野町建立
                  森岡司暁書

 長谷川さんからは、この殉国英霊之碑の建立、桜ヶ丘墓地建設の経緯についてもお話を伺いました。この建立に尽力された長谷川さんのお父さんが除幕式で式辞を述べられたとのことでした。五峰山は三郡(現在の小野市以北の4市1町)のほぼ真ん中に位置します。光明寺へのお参りや五峰山麓の河高八幡神社の厄神祭にもこの一帯から多くの人がお参りしたと聞いています。近代日本の礎となられた英霊6千人の御霊供養の地として相応しい場所だと思いました。今日は雨雲が低く垂れ五峰の山も眼下の滝野の市街も煙ってよく見えませんが、終戦の日の前に英霊の御霊に導かれたような気持ちになりました。
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明治12年の小学校教科書「兵庫縣管内地誌略」に記された加東郡(現加東市・小野市域)①

2021年08月13日 16時51分42秒 | Weblog
  
 
 明治12年(1879)発行の『兵庫縣管内地誌略』を市内の旧家の方に見せてもらいました。このブログで紹介した『兵庫縣管内地誌』(明治25年刊)より13年も前の発行です。表紙裏には「八城小学校生徒」と書き込んであります。「八城」は「社」小学校の古い名称で、明治10年代は社市街地の南端、今の明治館のある場所に校舎があった時代の名称です。
 さて、この地誌の「加東郡」の項を開いてみると、位置、人口、地勢、行政などが簡明に記述されていました。次の通りです。

○加東郡
初メ加西ト合セテ加茂郡ト称ス、美嚢ノ西北ニ連ナリ、坤(※南西の方角)ハ印南ニ触レ、艮(※北東)ハ摂津ノ有馬ト丹波ノ多紀トニ交リ村落一百二十、戸数九千八百六十余、人口四万四千五百八十余アリ
五峰山ハ一ニ光明寺山ト云フ、東北隅滝野村ノ上ニアリテ、数峰ヲ生セリ、引尾鳴尾モ亦タ其中ニ在リ、観応中足利尊氏ノ弟直義ト戦ヒシ処ナリ、滝野川、其前ヲ流レ、春日、捕鮎ノ景最モ奇観ヲ為セリ、下流直走シテ美嚢印南ノ間ニ入ル、東畔美嚢ノ境ニ依リテ室山アリ、寿永中平氏ノ行家ヲ破リシ処
                             次回に続く

 文中の観応中足利云々の記述は、光明寺合戦と呼ばれている戦いのことです。観応2年(1351)、足利尊氏は引尾山に、高師直は鳴尾山に陣を張って光明寺に立て籠もる石塔頼房を攻めましたが、攻めきれずに兵を引きました。また、寿永中平氏云々は、源平の戦い、室山合戦のことなのですが、寿永2年(1183)に源行家が平氏と戦って負けた戦いですが、これは揖保郡御津町(現たつの市)の室山での合戦とされています。「東畔美嚢ノ境ニ依リテ室山アリ」とあるのは、『加東郡誌』に三木市との境近くの市場村の室山を合戦の場所としていることから、明治時代には、そう考えられていたのでしょう。
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続・明治の尋常小学校教科書「兵庫県管内地誌」からー縣治の組織(役所)

2021年08月13日 05時30分28秒 | Weblog
 

 昨日に続いて、教科書の記述の続きを紹介します。府縣、郡、市町村についての記述です。次頁には「縣下各郡位置略図」が挿入されています。当時の加東郡は、現在の加東市と小野市の市域です。郡役所は社村(現加東市社)に置かれていました。

村には其人民を治むる人あり、之を村長と云ひ、助役ありて之を助く、共に其地に住みて、財産並に智徳ある人の中より投票を以て撰挙するものとす、而して其職をなす所を村役場と云ふ、町には町長及助役あり、町内の人民を治む、其務を執る所を町役場と云ふ、市には市役所を置き市長及助役ありて市内の人民を支配す、又数多の町村を合せて郡と名け、郡には郡長ありて之を支配し、郡書記ありて之を助く、而して其務を執る所と郡役所と称す、
市及郡の集まりたるものを國と云ふ、國を治むるにハ、府廰又ハ縣廰と云ふ、官衙を設く、而して府縣の長を知事と云ひ、書記官ありて之を助け、其下に数多の属官ありて各其務を執れり


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続・兵庫縣管内地誌(明治25年)より-縣治の組織 村と町と市

2021年08月12日 05時59分07秒 | Weblog
 

 昨日のブログで明治25年発行の加東郡社高等小学校(1年)で使用された教科書「兵庫縣管内地誌」を紹介しましたが、今日はその内容を引き続き紹介します。
 総論の第五は「縣治の組織」。そのはじめに市町村の別と交通について記述がありました。説明がシンプルで分かりやすいという感じを受けました。

 村とは人家の稍集れる所にして、町とは村より家数多く集まりたる所を云ひ、市とは町より大にして人口二萬五千以上ある所を云ふ、而して市町村の間には、道路を設け人の往来に便す、道路には種々の別あり。村と村との間などの狭き道を里道と称えへ、里道より幅廣きものは、縣道及國道とす、また「レール」を敷き馬車又は汽車の通ずる道あり、之を鐵道と称す、

 当時、県内には2市33郡が置かれていました。市は神戸市と姫路市で、神戸市が2万5千、姫路市は2万5千でした。
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明治20年代の高等小学校教科書「兵庫県管内地誌」から

2021年08月11日 04時55分04秒 | Weblog
 

 市内の旧家に保管されていた古い教科書を見せていただきました。ご先祖が使用されたもので、明治時代半ばのものでした。
 その中に高等小学校の教科書「兵庫県管内地誌」があり目を惹きました。「播磨國」の章では、位置及区別、地勢、気候、山岳、川流、道路、名邑、民業及物産の各項目にしたがって記述されています。まさに地誌です。
 加東市域に関する記述を拾ってみると、名邑の項に「社村」があり、次のように記述されていました。

 社村は、加東郡にあり、郡役所及裁判所のある所にして、戸数数千余縣社あり佐保神社と云ふ

 川流の項に「加古川」の項があり、次のように記述されています。

 加古川は、丹波の氷上郡より来り、荒田(多可)・東條(加東)・在田(加西)・三木(美嚢)の諸水を合せ印南・加古両郡の境をなし、下流二に分れ、本流は高砂の東に至り海に入る、長さ殆二十五里、舟の通ずること十五里なり、分流を洗川と云ひ印南郡伊保﨑村に至り海に入る、

 播磨國の章の最後に地図が挿入されていました(写真)。
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加東の夜空に花火開く-ライオンズクラブがコロナに打ち克とうと呼びかけ

2021年08月10日 05時26分38秒 | Weblog
  

 

 8日(土)の夜、ちょうど東京五輪の閉会式が始まる午後8時から約15分間加東市社の中央公園上空に花火があがりました。
 これは、加東ライオンズクラブがコロナで鬱々とした生活が続くなか、みんなでコロナに打ち克とうとシークレット花火を企画したものでした。15分、150発の短く、小さい花火でしたが、轟音とともに夜空に開く花火の光は人々の心を明るく照らしました。密にならないように花火打ち上げ、時間、場所もすべてシークレットで実施されましたが、ステラパークや公園近くの交差点には合図の音とともに人々が出て、花火を見上げました。拍手、歓声、そして「ありがとう」の言葉がありました。
 コロナ感染防止のために、2年続けて東条湖の花火大会も夏の踊りの花火も、滝野の花まつりの花火もありません。久しぶりの花火はやっぱりいいものでした。写真は警備にあたっていた嬉野口交差点の公園入口で撮ったものです。交番の白い時計台の上空に花火が開きました。
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昭和20年9月7日ー戦死公報あり町内で祭壇作る

2021年08月08日 15時47分39秒 | Weblog
 昭和20年(1945)の父の手帳の9月7日の項に戦死公報のことが書いてあります。

 7日 臼井勇雄君ノ戦死公報在リ
    8組会員祭壇作ル

 臼井勇雄君とは同じ町内(8組、現在の加東市社3区中田町)の人。海軍の特務艦「間宮」(食料などの輸送にあたった給糧艦)の乗組員として任務についておられたましたが、昭和19年12月21日にフィリピン沖でアメリカの潜水艦の攻撃を受け、間宮は沈没し、戦死されました。遺族の臼井久雄さんは当時まだ2歳ぐらいだったとのことで、父親のことはほとんど憶えていないと話しておられました。
 その臼井勇雄さんの戦死公報が終戦から20日余り経った9月7日に届いたのでしょう。町内会で祭壇を作り、翌8日の項に「完了」と書き留められていました。
 もうすぐ76回目の終戦の日を迎えます。遺族会の高齢化、コロナ禍ということもあり、全国戦没者慰霊祭への参列も各県少数に制限ということがしばらく前の新聞記事にありました。社の明治館前広場の忠魂碑で静かに祈りを捧げたいと思います。
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トンボの指定席を占拠-真夏の庭で

2021年08月08日 05時19分29秒 | Weblog
 

 庭の一角に支柱として立てた竹の先端は、トンボの指定席。このブログでも紹介したことがありますが、その席をセミの抜け殻が占拠していました。
 昼間に庭に出ると驚いて一斉に飛び回るアブラゼミ。その数は何十匹といっていいほどです。セミの抜け殻は低い草の先から2階のベランダの高さのナンキンハゼの枝の先まで残っており、あらゆる場所で羽化していることがわかります。とうとうトンボの休憩の指定席の竹の先まで占められてしまいました。ここにトンボが止まってくれればいいのになあ、などとその光景を思い浮かべてしまいます。
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真夏の夕空

2021年08月07日 05時39分01秒 | Weblog
 

 猛暑が続いています。そんな一日の終わり、日が沈んだあとの空には、残照に浮かび上がる雲が心を癒やしてくれます。
 夏と言えばキャンプ。今時の格好いいキャンプではなく、ボーイスカウトが野営と言っていたキャンプのことを思い出します。飯盒炊さん、食器を洗って、そのあとはキャンプファイヤー。「遠き山に日は落ちて~」と歌いながらファイヤーを囲んだことが無性に懐かしくなります。
 関電タワーの上空に残照に輝く高い雲(3日)、神戸からの帰り道、三木東インター近くの県道で眺めた遠い入道雲(6日)。
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ハハの字シラサギー胴体の両側に

2021年08月06日 05時37分04秒 | Weblog
 

 先日、胴体にハハの字のあるシラサギの写真を紹介しましたが、なんと反対側にもハハの字がありました。もちろん同じシラサギです。こんな偶然は滅多にないので、再投稿します。
 緑の稲田に真っ白のシラサギは美しい夏の景色の一つ。しかし、ハハの字が両側に写り込んだシラサギはまず見ることはできません。まさに偶然がつくりだした一瞬の景色でした。
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猛暑の真昼ー密になっていませんか?

2021年08月05日 04時47分54秒 | Weblog
 

 4日(水)は、昨日とは打って変わって猛烈な暑さの一日となりました。日中は、本能的に外に出るのは危険だと感じてしまいます。
 昼過ぎ、ふと庭を見ると、ナンキンハゼの幹に点々とアブラゼミが止まっていました。朝日とともに鳴き始め、10時30分頃まで耳の奥が痛くなるほど鳴きますが、昼はピタッと止みます。休んでいるんですね。
 しかし、ちょっと密になっていませんか?それと、アブラゼミの胴体の白黒の模様は、何か顔、仮面に見えてしまうのです。小さい頃からクマゼミの次に格付けされ人気のあったアブラゼミ。シャブと呼んで捕りに行きました。子どもの頃ならこの光景に大喜びしたでしょうね。

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羽黒トンボー水路をゆらりゆらりと

2021年08月04日 05時22分21秒 | Weblog
 

 田圃の水を見にいくと、一面の緑の中に点々として映える真っ白のシラサギが目に入ります。
 そして、用水路、排水路の水が流れるところには、ハクセキレイをよく見かけます。ハクセキレイの動きを目で追っていると、深い排水路の中に黒いものが動くのが目に止まりました。羽黒トンボでした。
 ゆらりゆらりと飛び回りながら、排水路に生えた草に止まって羽をたたんで休んでいるようです。時々、4枚の羽を背伸びでもするようにぱあーっと広げます。西に傾いた夕日が排水路にも差し込み、その光の中で黒い羽と緑に光る尾が優雅そのものでした。
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田圃の畦のシラサギーハハの字が

2021年08月03日 05時17分32秒 | Weblog
 

 2日(月)の夕方、帰宅途中に田圃のようすを見に寄りました。今日も猛暑の一日でしたが、日中の暑さをさけて作業に出ている農家の姿も見られました。
 緑一面の田圃の中に真っ白なシラサギの姿が目に止まりました。長い首を曲げては伸ばし、一歩一歩足をしのばせるように田圃の中を歩いています。餌を探しているのでしょう。その美しい姿をカメラに収めました。
 よく見ると、胴体のところに「ハハ」とカタカナで書いたように見えます。あれっと思い、もっとよく見ると、手前の草が偶然その白い体にハハと写り込んでいたのでした。夏の日の夕暮れ時の田圃は美しい。
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水路のハクセキレイー真夏の田圃の景色

2021年08月02日 04時48分56秒 | Weblog
 

 1日(日)、真夏の空の下、緑の田圃が広がっています。中干しでよく乾いた田圃に水を入れました。こんなに炎天の日が続いても水路にはため池からの水が流されてきます。ありがたいと思いながら水口を開けると水がひび割れた田にしみこむように流れて広がっていきます。
 ふと見ると、用水路の縁に一羽のハクセキレイが飛んできました。ちょこちょこと動き、次の瞬間、すぐ横の排水路に飛び降りました。深くて、草も生えている水路をちょこちょこと歩いていきます。餌を探しているのでしょうか。しばらくの間、その様子を眺めていました。
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