ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

昭和12年-日支事変に関する政府声明

2012年11月09日 05時00分10秒 | Weblog
 社区事務所の軍事関係往復文書綴(昭和12年4月~14年2月)の中に昭和12年7月7日に発生した蘆溝橋事件に端を発した北支事変、のち拡大して日支事変と呼ばれる衝突に関する文書が綴じられています。その中に、活字で印刷された「日支事変ニ関スル政府ノ声明」と題された一枚のビラが綴じられています。相次ぐ中国側による排日侮日行為、日本の正当なる権益の侵害等に隠忍自重していた日本でしたが、蘆溝橋事件は明らかに中国側の発砲によるものであり、その後の攻撃で死傷者も出て遂に日本軍の出動となったという経緯が説明されています。政府は北支における治安維持、日本の正当なる権益を守るが、事変の不拡大という基本方針であるということも説明しています。


 日支事変ニ関スル政府ノ声明

 相踵ク支那側ノ侮日行為ニ対シ、支那駐屯軍ハ隠忍静観中ノ處、従来我ト提携シテ北支ノ治安ニ任ジアリシ第二十九軍ノ七月七日夜半、蘆溝橋附近ニ於ケル不法射撃ニ端ヲ発シ該軍ト衝突ノ巳ムナキニ至レリ、為ニ平津方面ノ情勢逼迫シ我在留民ハ正ニ危殆ニ瀕スルニ至リシモ、我ハ和平解決ノ望ヲ棄テス事件不拡大ノ方針ニ基キ局地的解決ニ努力シ一旦第二十九軍側ニ於テ和平的解決ヲ承諾シタルニ不拘、突如七月十日夜ニ至リ彼ハ不法ニモ更ニ我ヲ攻撃シ、再ビ我軍ニ相当ノ死傷ヲ生ズルニ至ラシメ、而モ頻リニ第一線ノ兵力ヲ増加シ更ニ西苑ノ部隊ヲ南進セシメ、中央軍ニ出動ヲ銘スル等武力的準備ヲ進ムルト共ニ平和的交渉ニ応スルノ誠意ナク終ニ北平ニ於ケル交渉ヲ全面的ニ拒否スルニ至レリ
 以上ノ事実ニ鑑ミ今次事件ハ全ク支那側ノ計画的武力抗日ナルコト最早疑ノ余地ナシ
 思フニ、北支治安ノ維持ガ、帝国及び満州国ニトリ緊急ノ事タルハ茲ニ贅言ヲ要セサル處ニシテ支那側カ不法行為ハ勿論、排日侮日行為ニ対スル謝罪ヲ為シ及今後斯カル行為ナカラシムル為メ適当ナル保障等ヲナスコトハ東亜ノ平和維持上極メテ緊要ナリ
 依テ政府ハ本日ノ閣議ニ於テ重大決意ヲ為シ北支派兵ニ関シ政府トシテ執ルヘキ所要ノ措置ヲナス事ニ決セリ
 然レトモ東亜平和ノ維持ハ帝国ノ常ニ顧念スル所ナルヲ以テ政府ハ今後共局面不拡大ノ為平和的折衝ノ望ヲ捨テス、支那側ノ速ナル反省ニヨリテ辞退ノ円満ナル解決ヲ希望ス、又列国権益ノ保全ニ就テハ、固ヨリ十分之ヲ考慮セントスルモノナリ
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昭和12年-佐保神社で國威宣揚皇軍武運長久祈願祭

2012年11月08日 05時32分21秒 | Weblog
 昭和12年(1937)12月1日、佐保神社(加東市社)で行われる國威宣揚皇軍武運長久祈願祭の案内が当時の社地区軍事関係文書に綴じられています。この年7月に起きた蘆溝橋事件により多くの兵士が動員され郷土からも佐保神社で奉告祭を行い出動しています。また、この頃には戦死し遺骨で凱旋の兵士も出て事変が長引くことが予想されていました。そうした中での祈願祭の執行だったのでしょう。以下はその案内通知です。

昭和十二年十一月二十七日
                社町長  大 橋 實 次

各官公衙長殿
各町会議員殿
各区長  殿
各学校長 殿
各団体長 殿
各団体役員殿

       祈願祭参列方ノ件

来ル十二月一日午前八時ヨリ社佐保神社前ニ於テ國威宣揚皇軍武運長久ノ祈願祭をヲ執行可仕候条御参列相成度御案内申上候
 尚 県ヨリハ知事代理代参セシメラレルニ付御部(公衙)(団体)内多数御参列相成様御伝ヘ下サレ度願上候
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昭和12年-北支派兵に関する時局講演映画会

2012年11月07日 04時49分38秒 | Weblog
 昭和12年(1937)年7月7日に起きた蘆溝橋事件に端を発する日支両軍の衝突で北支派兵が行われました。わが郷土からも多くの兵士が出動していきましたが、そうした中、兵庫県と加東郡町村長会(今の加東市・小野市域)主催の時局講演映画会が開催されています。社町長から各種団体長宛てに出された通知を紹介します。

 社通一第二〇八三号一
  昭和十二年八月二十三日
                   社町長  大橋實次
町 会 議 員 殿
区 長     殿
青 年 団 長 殿
婦 人 会 長 殿
処 女 会 長 殿
在郷軍人分会長 殿
社会教育委員  殿
方 面 委 員 殿
小 学 校 長 殿

    時局講演映画会開催ニ関スル件

今般左記要項ニヨリ時局講演、映画会開催可相成候ニ付繰合セ是非共御出席相成度此段通知ニ及ヒ候

         記

 時局講演映画会開催要項

一、目的 北支事変ヲ中心トシ日支関係満州国境問題等ニ関シ一般県民ノ認識ヲ高メ大国民ノ襟度ヲ持シテ堂々挙国一致銃後ノ責務ニ邁進セシムルニ在リ

二、趣旨 各市町村並ニ各種団体ノ中堅層ヲシテ先ヅ事変ニ対スル正シキ認識ヲ得シメ次デ各町村ニ於テ之ガ伝達懇談ヲ開ク等ノ方法ニ依リ一般県民ニ徹底セシメントスルニ在リ

三、主催  兵庫県。 加東郡町村長会
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掎鹿谷のコスモス

2012年11月06日 05時51分23秒 | Weblog
 3日(土)、加東市掎鹿谷地区で行われたコスモスまつりに行ってきました。秋晴れの下、コスモスの花が一面に咲いていました。コスモスは加東市の花に選ばれています。加東市の木は桜。春は桜を、そして秋にはコスモス(秋桜)を愛でて楽しむ。いいですね。地区の皆さんが枝豆などで訪れる人々に接待をしておられ、昼頃には多くの人が楽しまれたということでした。
 私は午後1時頃だったと思います。写真を撮ってもらいました。掎鹿谷地区には東条東小学校があり、環境学習に熱心に取り組んでいます。遠くに清水寺のある御嶽山や三草山の頂上部分が望めます。
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掎鹿廃寺の塔の心礎

2012年11月05日 04時56分46秒 | Weblog
 昨日紹介した加東市掎鹿谷の薬師堂にある掎鹿廃寺址の塔の心礎についてもうすこし詳しく紹介します。薬師堂に掲示された説明板に心礎のことが次のように書かれています。

市指定文化財 心礎 指定昭和30年3月27日

 堂の西側の薮の中にある。長径約160㎝、短径約120㎝、厚さ約50㎝の自然石で、上部中央に直径約40㎝、深さ約11㎝の柱穴をもつ。
 この心礎によって奈良時代末期から平安時代初期にかけて、この堂の北側辺りに層塔をもった壮大な寺院・旧掎鹿寺があったことがうかがえる。つまり、この石は層塔の中心柱を支えた心礎である。

 塔は三重の塔と考えられています。千年以上前、この地に三重の塔が聳えている光景を想像すると思わず心が大きくふくらんでいく感じがしました。
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掎鹿谷の薬師堂-掎鹿廃寺址

2012年11月04日 04時58分26秒 | Weblog
 加東市掎鹿谷地区の見晴らしのよい高台の田圃の中の一段低くなった一角に薬師堂があります。小さなお堂と2基の板碑、灯籠、真ん中に穴のあいた大きな石などがあります。この石はかつてこの一帯にあった掎鹿寺の三重の塔の心礎だったとされています。
 この地にあったとされる掎鹿寺は、発掘調査の結果、法隆寺のように周囲を塀で囲み、中に講堂や金堂、三重塔があった大きな寺だったとされています。当時の瓦が出土しており、約800年前の鎌倉時代のもので、この頃に廃寺となったようです。
 薬師堂から周囲を見渡してみると東条川の流れにそって広々と田圃がひろがっており、見晴らしのよいところです。目を閉じてこの地にあった壮大な堂塔伽藍を想像してしまいました。
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昭和13年-社町社の三階前で応召兵歓送

2012年11月03日 05時54分40秒 | Weblog
 昭和13年(1938)の夏、支那事変勃発から1年余りが経ち、郷土からも多くの応召兵が町民に見送られて出発していきました。社区事務所の「軍事関係往復文書綴」には応召兵の奉告祭、歓送に関する通知が綴じられています。その一つを紹介します。社町三階前というのは、現在の加東市社の商店街の南、佐保神社参道から少し東の交差点の辺りです。


 昭和十三年八月十五日
至急
           社 町 長
区長殿
町会議員殿
学校・団体長殿
官衙・会社御中

  応召兵出発ニツキ歓送方ノ件

明十六午前八時社町三階前播丹乗合自動車ニテ左記応召兵出発セラルルニ付御部内一般ヘ御伝言ノ上多数御見送リ被下度及通牒候也

    記

 藤原行雄(社)




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のじぎくの塔に郷土出身兵の名が

2012年11月02日 05時38分12秒 | Weblog
 先月30日に沖縄県の糸満市摩文仁の丘にある国立戦没者墓苑にある兵庫県の戦没者慰霊塔、のじぎくの塔で行われた慰霊祭に参列しました。
 のじぎくの塔には、沖縄戦で散華された英霊の名が刻まれています。加東郡の戦没者の名前を順番に読んでいると、ある名前のところで目が止まりました。
 このブログの前回投稿(11月29日投稿)の支那事変で応召された兵、田中勲の名があったのです。山国(現加東市山国)出身の田中勲さん。同一人物かどうか確かめていませんが、こうして沖縄に慰霊に行く前に地区の軍事関係の古文書の中にあった名前をのじぎくの塔で見つけたということに何か不思議な縁を感じました。
コメント (2)
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