ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

弁慶のなぎなた石-元は旧道脇に

2009年02月15日 05時24分31秒 | Weblog
 国道372号沿い、三草山がのしかかるようにせまってくる加東市山口と馬瀬の境あたりに一風変わったモニュメントがあります。大きくカーブをきるその山側に塀のように立つ壁に鎧姿の騎馬武者達の姿がくり抜かれています。スピードを出して走っていると一瞬脇目に飛び込んでくるその武者らはまさに影絵のように動き出しそうな感じがします。このモニュメントは三草山が源平合戦の古戦場であることを表してつくられたものです(平成6年竣工)。
 三草山合戦は義経の坂落としで有名な一の谷の合戦の前哨戦です。京の都から西国に通じるこの丹波路が山間から播州の平野部に出るところ、この三草山に平資盛らが陣を張り、都から迂回路をとって生田へ攻めようとする義経軍を待ちかまえていたわけです。夜は攻めて来ないだろうと鎧を脱いで清盛の法要をしていた平家の陣に義経は得意の夜襲をかけました。大混乱の平家はそのまま街道を社方面に逃げ、資盛はそのまま高砂から四国の屋島に逃げました。しかし、三草から社にかけてのいたるところで逃げる平家と追う源氏の戦いが繰り広げられたのです。下三草の「かなし池」、喜田の大寺、社の百旗、山氏神社の「義経お手植の松」、下川(白川)源氏などの地名、上久米の弁慶の投げ桜など源平の戦いにまつわる伝説が数多く残っています。これらについてはこの歴史ブログでも紹介してきた通りです。
 さて、その中でモニュメントの近くの山の中に写真のような石が置かれており、その石に数本の御幣が立てられています。この石は「弁慶のなぎなた石」と呼ばれ、この地を通った弁慶がそのなぎなたの柄をこの石に打ちつけたあとがくっきりとへこんで残っているのです。よく見ると確かになぎなたの柄でついたあとのような人工的なへこみがあります(少し口径が大きいかも)。この石は元は馬瀬の村の中を通る旧道の脇にあったと聞いていました。それが372号の工事の際にこの地に移されたということです。
 さて、ここまではこの歴史ブログにも2年前に紹介しましたが、その後新たに聞いたことを紹介します。この石は今は半分地中に埋められている状態で立っていますが、元は道ばたに横というか平らに寝た状態であったそうです。これを聞いて合点がいきました。弁慶はその石に上からなぎなたの柄をついたのだ、と。今の状態だと横からついたことになってしまいます。また、御幣は馬瀬の村の東西南北に魔除けで置かれているものだそうです。
 モニュメントは目立ちますが、そこから少し離れた林の中の石に今からおよそ800年余り前の強者の痕跡が伝承されているのが何ともうれしい話ではないでしょうか。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 米田村の忠魂碑 | トップ | 阿弥陀堂-涅槃図のご開帳も »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事