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Calvin, Aphorismes of Christian Religion

ジャン・カルヴァン
『キリスト教要項』(1596, 部分)

第26章 主の晩餐について

I.
主の晩餐は、新約、すなわち恩寵の契約における第二の秘蹟である。パンを裂き、またワインをカップに注ぐことにより、キリストの受難・流血が描かれ、あらわされ、わたしたちはそれを目にする。これらの聖体を与え、受けとり、食べ、飲むことにより、(キリストの受難・流血、つまりありがたき彼の死によって与えられる)罪の赦しと永遠の生、そしてイエス・キリストを頭とする教会に入ることが確約される。キリストを信じ、聖餐に与るに値するすべての人に、である。こうして敬虔な人は、神が自分の子の死を通じて与えてくれた好意を信じて安らかに生きられる。人の魂はキリストの友となり、清らかな関係のなかで日々成長するのである。
註:
マタイ26.28、マルコ14.24、ルカ22.20、コリント人上11.25
マタイ26.26、マルコ14.21、ルカ22.19、コリント人上11.24
マタイ26.28、ヨハネ6.51, 53, 54, 58
(151-52)

IV.
この秘蹟を定めたキリストの言葉は以下のとおりである--「手にとって食べなさい。手にとって飲みなさい。これをしなさい。わたしを忘れないように」。
(153)

VI.
主の晩餐でパンを裂くのは、主の命じたとおりである。また、それは主がしたことでもある。主はパンを裂き、それを自分の体をあらわす聖なるものとした。そしてその裂かれた聖なるパンをわたしたちに与え、食べさせ、わたしたちのために引き裂かれた、つまり十字架にかけられた、自分の体をあらわす生きた聖なる象徴とした。……パンを裂くということが、主の晩餐におけるもっとも重要な儀式である。こうして、そのいちばんの目的が果たされる--つまりキリストの受難、彼の体の破壊があらわされ、事実としてわたしたちに示される。ワインを注ぐのも同じ理由からである。つまりそれがあらわすのは、キリストの血が注がれた、ということである。
註:
マタイ26.26、マルコ14.21、ルカ22.19、コリント人上11.24
コリント人上11.23
コリント人上10.16
コリント人上11.24
(153-54)

VII.
キリストの受難は、この秘蹟のなかで生きたかたちで示される。福音が説かれる時と同じように。
註:
ガラテア人3.1
(154)

VIII.
わたしたちがイエス・キリストおよび彼の聖霊をもっとも受けとりやすいのは、言葉を通じて、である。それは神の聖なる定めであり、また恩寵をわたしたちの精神・感情・良心に運ぶ道具である。その偉大なる力がわたしたちの魂に恩寵と信仰を与え、わたしたちは神の子、清らかで賢い存在となれるのである。
(154-55)

IX.
しかし、キリストの恩恵に与る以上二つの方法には違いがある。主はまず言葉によって恩寵を与えてくれる。そして、与えられた恩寵と信仰は、日々秘蹟によって強められ、増していく。
(155)

X.
くり返すが、主の言葉は聴覚のみを通じて人にはたらきかける。そこから知恵と信仰が生まれる(ローマ人10.14-15)。この聴覚こそ、人が腐敗して以来、理解・学習の源、人のなかに信仰を生むもっとも重要なものであった。しかし、アダムが堕落する前にもっとも重要であったのは視覚である。神のつくったものを見て、観察して、知恵と理解を得ていたのである。だからこの秘蹟において主は、視覚およびその他の感覚を大切にしている。すなわち、聖餐において、魂はキリストの言葉を聞くのみならず、キリストを見て、彼にふれ、彼のにおいをかぎ、そして彼を味わう。キリストと彼のもたらす恩恵すべてを糧とするのである。
註:
ブラッドフォードの晩餐の説教を見よ
(155-6)

XI.
この秘蹟ついて大切なのは、キリストの約束を確かなものとすること、彼の肉を食べ彼の血を飲めば永遠の生が得られる、と確信することである。わたしは命を与えるパンである、わたしを食べる者は永遠に生きる、と彼自身が言ったとおりである。主の晩餐の秘蹟はこれを確約する。だからわたしたちは十字架のキリストへと赴き、この約束が果たされるのを見るのである。そこでわたしたちは、キリストの肉を命のパンとして受けとる。わたしたちのために十字架にかけられた体、わたしたちに生を与える肉をいただくのである。
註:
ヨハネ6.55
ヨハネ5.51
(156)

XII.
信じていなければ、わたしたちはこの肉を食べることができない。信じていなければ、わたしたちはこの血を飲むことができない。
註:
ヨハネ6.35
(156)

XIV.
この魂で食べる肉・魂で飲む血がもたらす恩恵は、魂が神と一体となる喜びである。キリストの友として、ますます親しい関係になることである。というのも、信仰が確かになればなるほど、キリストとの関係も深まるからである。
註:
ヨハネ6.57
コリント人上5.8
コリント人上10.17
(157)

XV.
明らかであるとは思うが確認する。イエスの体は口で食べるものではない。聖餐のパンにイエスの体は入っていない。最後の審判の日まで、彼は天にいるはずなのだから。彼の体はすべての場所にある、天にあるのとまったく同時に主の晩餐のパンのなか地上の至るところに存在する、と言うことはできない。キリストの体は人の体と同様無限ではない。「キリストはすべてにおいてわたしたちと同じ存在となった。ただ、罪だけはなかった」と言われたとおりである。
註:
全質変化
共存
使徒3.21
(157)

XVI.
確認するが、キリストの体と血がパンとワインのなかに入っているのであれば、それらはバラバラになっていることになり、彼はあらためて死ぬことになる。しかしキリストはもはや死なない。
註:
ローマ人6.9
(157-58)

XVII.
さて、主の晩餐のパンはキリストの体とはならない。聖別の言葉の後も、見たところ実体としてのパンはパンである。まさに適切なたとえとしてキリストがこのパンを使って教えようとしたのは、彼の肉が霊的なものということである。だから、こう言って間違いないであろう。わたしたちの魂は十字架にかけられたキリストによって養われるが、これがなされるのは他でもないパンを通じてである。それはちょうど、わたしたちのために裂かれ与えらえるパンによってわたしたちの体が養われるのと同じである。くり返すが、すべての信じる人たちにキリストは言った、ひとつのパンを分けるように、と。彼らすべてがひとつのパン、ひとつの体のような存在であることを教えるために。だから、やはりパンは他でもないパンである。たとえ話はここにとどまらない。多くの粒や塊からひとつのもの、ひとつのパンはできている。それと同じように、多くの信じる人たちもひとつの信仰でキリストと編みあわされていれば、ひとつの愛でひとりひとりが互いに結ばれていれば、ひとつの教会となれるであろう。その頭であるイエス・キリストのなかで、そしてイエス・キリストを通じて。
註:
ヨハネ6.55
コリント人上10.27
(158-59)

XVIII.
洗礼の水もモーセが杖で打って岩から流れ出た水もキリストの血とはならなかったが、それでもこれらは秘蹟のキリストの血である。同じように主の晩餐におけるワインはキリストの血にならないが、それでもやはり秘蹟のキリストの血である。キリストがそのように定めたのだから。
註:
民数記20.10-11
(159)

XX.
普通に考えれば、キリストの言葉は比喩、換喩であって、もの、ここでは体、がパンという言葉で置き換えられてあらわされている。カップとキリストの血の関係も同じである。

XXIII.
このような発想が最近の捏造でないことを示すため、アウグスティヌスも次のように言っている。「もし秘蹟がそこで用いられるものとまったく無関係であったら、秘蹟として成立しない。そこにある相似関係によって(つまり、そこであらわされるものによって)その秘蹟の名は決定される。だから、秘蹟におけるキリストの体はある意味でキリストの体であり、秘蹟におけるキリストの血もある意味でキリストの血である。秘蹟によってもたらされる信仰は信仰である。」 ……
註:
アウグスティヌス、ボニファキウスへの書簡23
(161)

XXVII.
ゆえに、キリストの体は無限ではなくすでに地上から天にのぼっていて、最後の審判の日までそこにあるはずであるから、それはすべての場所には存在しえない。秘蹟のパンのなかにもない。
註:
使徒行伝19.10-11
使徒行伝3.21
コリント人上11.26
(165)

XXX.
カトリックはこう言う--キリストの体は見えるかたちで天にあるが、しかし秘蹟のパンのなかにもそれは見えないかたちで存在する。これは聖書から証明できないことであり、また自分たちの主張とも矛盾する。彼らは、キリストは本当に、実体として、肉として、パンのなかに存在する、と言うが、もしそうであるならキリストは目に見えるかたちでパンのなかにいるはずである。実体として存在することは、目に見えることに他ならない。……

XXXII.
わたしたちはキリストの体が秘蹟のパンに含まれていることを否定するが、キリストが完全に、あらゆる意味で、聖体に含まれていない、あのパンとワインは意味のない記号である、とは言っていない。キリストは聖なる彼の霊の力によって間違いなくいる、彼の名の下に二人または三人が集まるところに。……
註:マタイ18.20
(167)

XXXIII.
確認するが、もしキリストの体が秘蹟のパンのなかになかったら、当然わたしたちはそのなかの彼の体を崇めてはいけない。天にいる彼を崇め、称えなくてはならない。父なる神の右手に座っているはずであるから。昔から主の晩餐を執りおこなう際にもそう言われていたはずである。心を主に掲げるように、と。
註:
コロサイ人3.1
(168)

XXXVI.
主の晩餐に参加する人は善良でなくてはならない。つまり、自分たちが善良でないことを認めて悲しみつつ、慈悲深く恵み深い神を信じ、イエス・キリストとひとつになって善良になれるよう神にお願いしなくてはならない。

コリント人上11.18
(169)

XXXVII.
無知な人のために、より明確にわかりやすく言おう。そのような人でも聖なる晩餐の集まりの趣旨を理解して、心の準備をしたうえで参加できるように。この聖なる秘蹟の濫用が一因となってこれまで神の裁きがたくさん下され、多くの者が死の灰と化してきた。また、まさにこの今にも神の裁きは下されようとしている。これをなんとかしなくてはならない。神を嘲り、自分を害し自分の救済を妨げる、教会や人々に対する神の怒りをかき立てる、そのような悪しき晩餐参加者は以下のとおりである。
(169)

XVIII.
1.
まず、神の存在を否定する者、「神を、キリストを、もたない人々」、信仰のない人、単なる体の喜びだけを求めるエピクロス信奉者--これらの者には聖なる秘蹟を与えるべきでない。彼らはこの聖なる集まりに不相応である。神や神を信じる人々の友でないのだから。

エペソ人2.12
詩篇14.1
(170)

2.
すべての獣、犬、豚--言いかえれば、汚らしい獣の教えに従い、それを生きる者--使途パウロが断言したように、天の王国に入れないような者--つまり、「姦淫する者、偶像を崇拝する者、姦通する者、淫らな行為を好む者、獣姦する者、泥棒、人のものを欲しがる者、泥酔する者、罵る者、暴利を貪る者」。彼らはこう警告されている、「天国に行けると勘違いしてはいけない」。これらの者は、限られた者だけが参加できる記念の集いにふさわしくない。ましてや、この聖なる宴において、わたしたちとともに主であり救い主であるイエス・キリストに会うなど、もってのほかである。

コリント人上6.3

3.
すべての愚かな人。(どれほど害がないように見えてもダメである。)「主の体を見極めることができない者」(コリント人上11.29)。そもそもそれを見極めたい、知りたい、という欲のない人。知識がないということは信じないということであり、信じないということは愛さないということであり、愛さないということは信頼しないということであり、信頼しないということは畏れないということであり、畏れないということは遜(へりくだ)らないということである。神の恩寵によってこれらのことができないこと、これらのうちのひとつでもできないということは、神を崇拝していないということ、神から断絶されているということである(ヘブル人11.6)。だから、これらの者は主の体をもらうに値しない。
註:
信仰の重要基盤に関する無知
ヘブル人6.1-5
(170-71)

5.
知恵ある愚か者のなかに、神の言葉を愛し熱く信じるふりをしつつ、聖なる秘蹟を完全に無視したり軽視したりする者がいる。このような嘲りは神の定めに対する違反のなかに明らかであり、だから彼らは主の晩餐にまず来ない……。
(171)

6.
キリストに対して飢えていない者。飢えていなければキリストを食べることはできない。罪を知らないということは罪の意識がないということであり、罪の意識がないということは罪のために悲しんでいないということであり、罪のために悲しんでいないということは罪の告白ができないということであり、罪の告白ができないということは恩寵を求める心がないということであり、恩寵を求める心がないということはキリストを信じる心がなく彼を受けとることができないということであり、キリストを信じる心がなく彼を受けとることができないということは彼の子になれず聖なる存在になれないということである。
註:
詩篇32.5
エペソ人1.15
ローマ人8.14-15
(171)

7.
争いをもたらす者すべて。この秘蹟があらわすのは、わたしたちの心がひとつであること、愛、キリストや彼の仲間とひとつになって食をともにすること、である(コリント人上10.16)。
(172)

ーーーーー
第27章 教皇信奉者のミサについて

I.
教皇を信じる者は、ミサが人を正しい存在とする道徳的行為であると嘘をつく。ミサを司る聖職者はパンをキリストに変え、その際に次の五つの語を発する--「コレハ・ホントウニ・ワタシノ・カラダ・デアル」。次に聖職者はこのキリストをその父なる神に生贄として捧げ、すべての人、生きている人・死んだ人すべての罪を贖わせる。このようにミサにおいて人の罪が消える、とのことである。
(173-74)

II.
この教皇支持者の汚れた考えかたは不敬であり、神に対する冒涜である。キリストに対する非難・名誉毀損である。なぜなら彼ひとりが新約における唯一の聖職者であるのだから。
註:
ヘブル人5.6, 7.24

(つづく)

*****
Jean Calvin
Aphorismes of Christian Religion (1596, part)
(Tr. H. Holland)

Chapter 26: Of the Lordes Supper

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下のWrightのものとは異なる、改革派(プロテスタント)の
聖餐論。

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