英語の詩を日本語で
English Poetry in Japanese
Wright, A Treatise of the Blessed Sacrament
トマス・ライト
『論説:聖餐のパンのなかに救い主は当然本当に存在しうる』
(1596年、部分)
--キリストの体は本当に聖体のなかにある--
カトリックにとって、これを証明するためにわざわざ議論するのは無駄なことである。教会の見解がずっと一貫している以上、それを信じるなら他の証拠はまったく必要ない。しかし、彼らを安心させるため、あるいは彼らが抱いてきた信仰をより確かなものとするために、たとえ話や誰でもわかる経験を語りながら、言わば聖櫃の覆いを少し開いて、人の目から隠されてきたことを明らかにしようと思う……。(B1r)
第一に、こう訊く者たちがいる。キリストの体のように手足があって大きなものがあの小さな聖体・ホスティア、パンのかけらや一滴のワインのに入り収まっている、などということがありうるのか、と。この問いに答える前に、逆に訊こう。この奇跡は、教会や山を一粒の大麦くらいの穴に入れるのと同じ類のものではないか? みな、そうだ、と言うだろう。わたしはこれが自然の力によってなしうることを証明しよう。聖ポール寺院の塔のいちばん上にのぼって国中を見てみよう。山が見える。丘が見える。平野と谷が見える。川・庭・牧草地・果樹園・教会・家が見える。動物がいて人がいる。上には空、下には大地がある。そんな雄大な光景を見た後で、目を閉じてみよう。すると、心のなかにまだ見えるはずだ。外の世界に見えたものが同じ順番に、同じところに、同じ位置関係で、同じ大きさで、並んでいるのが。だから訊こう。山や村や川や宮殿は、どんな大きな門を通って心のなかに入ったのだろう? もちろん答えは、目のなか、大麦一粒と変わらない大きさの瞳孔を通って、である。だが、どうやったら神はあんな大きなものをこんな小さなところにたくさん入れることができるのか? それはこういうことだ。目に入る時、山は霊の服を身にまとって霊的存在となる。目に映る山自体は、他のものと同様、物体として大きな空間を占めていても、である。このたとえ話は、聖体のなかにキリストの体があるという不思議な現象のよい説明となる。つまり、キリストの体も霊の服を身にまとい、それで聖体のなかすべてに行きわたるのである。すべての人の目のなか、山の姿がきちんと崩れず映るように。(B3r-v)
次に、どうしたらひとつの体が同時に多くの場所に存在できるか? 例えば、イングランドに、フランスに、フランダースに、イタリアに?
わたしの答えはこうだ。わたしの魂は、頭に、手に、足に、分割されることなく存在している。魂が三つの場所に完全なかたちで存在できるのだから、ひとつの体が異なる場所にあってもおかしくないであろう。どちらも矛盾しているのは同じだ。
説教師が壇上にいて、ひとりで話しているとする。しかしそれを聴くのは500人だ。すべての人が同じ言葉を耳で聴く。
大きな鏡の100分の1くらいの小さな鏡が100枚あったとする。そのひとつひとつに映るのは、もちろん完全なかたちの自分の顔である。(B4r-v)
第三に、比較的に小さいキリストの体と血があれほど多くの聖体のパンや樽のワインのなかにあるとはどういうことか? 世界中の幕屋で同時に聖別されるとは?
そのようなことを言うなら、受胎時の小さな体に入った魂が、何もつけ加えられることなしで、成長した大人の体全体に広がるのはなぜか? 分割されえない神の存在が、なにもつけ加えられることなしで、また切断されたり変質したりすることなしで、世界を満たしているのはどういうことか?
日々の経験から明らかだが、小さなお香が分解されて煙になってもその成分や量は変わらない。ただ希薄化されて教会中に広がるだけである。もうひとつ、日々水銀を使っている人であれば知っている。それはポットに入れて火にかけると煙になって立ちのぼり、どんな大きな部屋でも満たしてしまう。しかし空気によって冷やされると、それは固まって落ちてきて、そしてまた小さくなる。まさにそれと同じで、キリストの体と血は、しばらくのあいだ大きくなっても、煙が消えるようにパンとワインの外形が体内に消えると、またもとの姿になって永遠にそのまま残る。(B5r-v)
………………
第六の疑問--キリストの体があれほど多くの人に食べられてなくならないのはなぜか? この秘跡がはじめられて以来、長い年月のあいだずっと食べられ続けてきたのに?
このような問いに対して答えるために、キリストはヨハネの福音第6章にて、まず5000人の男(それから女たち・こどもたち)の空腹を大麦パン5個と魚2匹で満たすという奇跡をおこなっている。残ったパン屑12かご分も使ったが。聖体拝受の秘跡を授ける前にキリストがこの奇跡をおこなったのは、上のような反論に答えるためである。もし彼があのように少量の食べものをあのように大勢の者に分け与えて、しかも最初にあった量より多くを残すことができるのならば、何百万という人に自分の体を与えてその体が最初と同様完全なかたちで残ってもまったくおかしくないではないか? ここでキリストの体がしていることは、わたしたちの魂がいつもしていることと同じである。体はいつもいくらかの部分を呼吸によって失うが、それは食べもの・飲みもので補われる。呼吸によって吐き出された部分にもはや魂は入っていないが、その部分が減ったり完全に失われたりすることはない。まさにそのようにキリストの体は多くの聖体に宿りつつ、そのなかから消え、消費されたり変化したりしないのである。(B7r-v)
第七の問い--キリストはあんな不快な場所を通って平気なのか? 例えば、耐えがたいほど息がくさい人の胃とか?
神である彼が極めて不快で不潔な場所を満たし、かつそれに染まらずにいられることは、例えば太陽の光が糞の山を照らしても汚く染まらないのと同じである。不死で無敵の光を帯びたキリストの体は、どんな汚れた・くさい・有害な人の影響も受けないのである。(B7v-B8r)
第八の異論--パンとワインがおなかでグチャグチャになったら、キリストの体はどうなるのか? 天にのぼるのか? それであれば、それはいつも旅をしていることにならないか? あるいは胃のなかに残るのか? それはこのうえなく不快であろう。
もし人の腕が切り落とされたら、腕に宿っていた魂はどうなる? 死ぬ? であるなら、腕を失った人は魂を一部失ったことになる。それとも腕の魂は空中に漂う? いや、魂は空気に宿れない。つまり、切り落とされた腕の魂はもとあった体に戻るだけである。まさに同じように、キリストの体も胃のなかから消えてもともとそれがあった天に戻るだけである。(B8r-v)
第九の反論--聖体が裂かれたらキリストの体も裂かれないのか? 足が胴からもがれたり、とか? どうして骨が折れる音が聞こえないのか? どうして血が噴き出るのが見えないのか?
鏡が割れても、割れる前の鏡と同じで、その破片のひとつひとつに自分の顔が完全なかたちで見えるだろう? まさにそれと同じで、聖体が裂かれてもすべてのかけらにキリストの体が完全なかたちで宿っているのである。(B8v-C1r)
第十問--聖体のなか、キリストの体はグチャグチャになっていないのか? あのように小さな場所に詰めこまれているのに? ふつうに考えたら、体全体が押しつぶされて消えてなくなりそうなものだが?
これは最初の問いに対する答えを見ればはっきりわかるであろう。国がグチャグチャになることなく目に映るのはなぜか、というのと同じである。あるいは人の顔を見た時、その顔が目に映る時、きちんと同じ輪郭や大きさや位置の関係を保っていて、グチャグチャになっていないのと同じである。(C1r)
*****
Thomas Wright
A Treatise, Shewing the Possibilitie, and Conueniencie of
the Reall Presence of our Sauiour in the Blessed Sacrament (1596)
(Excerpt)
STC 26043.5
*****
1596年にこのように堂々とカトリックの立場が
論じられていたことが重要。
同時に、当時の科学的知見のレベルを理解することが
私たちにとって重要。
それから、学術的な議論と笑いの共存関係も。
*****
学生の方など、自分の研究・発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者・タイトル・
URL・閲覧日など必要な事項を必ず記し、
剽窃行為のないようにしてください。
ウェブ上での引用などでしたら、リンクなどのみで
かまいません。
商用・盗用・悪用などはないようお願いします。
『論説:聖餐のパンのなかに救い主は当然本当に存在しうる』
(1596年、部分)
--キリストの体は本当に聖体のなかにある--
カトリックにとって、これを証明するためにわざわざ議論するのは無駄なことである。教会の見解がずっと一貫している以上、それを信じるなら他の証拠はまったく必要ない。しかし、彼らを安心させるため、あるいは彼らが抱いてきた信仰をより確かなものとするために、たとえ話や誰でもわかる経験を語りながら、言わば聖櫃の覆いを少し開いて、人の目から隠されてきたことを明らかにしようと思う……。(B1r)
第一に、こう訊く者たちがいる。キリストの体のように手足があって大きなものがあの小さな聖体・ホスティア、パンのかけらや一滴のワインのに入り収まっている、などということがありうるのか、と。この問いに答える前に、逆に訊こう。この奇跡は、教会や山を一粒の大麦くらいの穴に入れるのと同じ類のものではないか? みな、そうだ、と言うだろう。わたしはこれが自然の力によってなしうることを証明しよう。聖ポール寺院の塔のいちばん上にのぼって国中を見てみよう。山が見える。丘が見える。平野と谷が見える。川・庭・牧草地・果樹園・教会・家が見える。動物がいて人がいる。上には空、下には大地がある。そんな雄大な光景を見た後で、目を閉じてみよう。すると、心のなかにまだ見えるはずだ。外の世界に見えたものが同じ順番に、同じところに、同じ位置関係で、同じ大きさで、並んでいるのが。だから訊こう。山や村や川や宮殿は、どんな大きな門を通って心のなかに入ったのだろう? もちろん答えは、目のなか、大麦一粒と変わらない大きさの瞳孔を通って、である。だが、どうやったら神はあんな大きなものをこんな小さなところにたくさん入れることができるのか? それはこういうことだ。目に入る時、山は霊の服を身にまとって霊的存在となる。目に映る山自体は、他のものと同様、物体として大きな空間を占めていても、である。このたとえ話は、聖体のなかにキリストの体があるという不思議な現象のよい説明となる。つまり、キリストの体も霊の服を身にまとい、それで聖体のなかすべてに行きわたるのである。すべての人の目のなか、山の姿がきちんと崩れず映るように。(B3r-v)
次に、どうしたらひとつの体が同時に多くの場所に存在できるか? 例えば、イングランドに、フランスに、フランダースに、イタリアに?
わたしの答えはこうだ。わたしの魂は、頭に、手に、足に、分割されることなく存在している。魂が三つの場所に完全なかたちで存在できるのだから、ひとつの体が異なる場所にあってもおかしくないであろう。どちらも矛盾しているのは同じだ。
説教師が壇上にいて、ひとりで話しているとする。しかしそれを聴くのは500人だ。すべての人が同じ言葉を耳で聴く。
大きな鏡の100分の1くらいの小さな鏡が100枚あったとする。そのひとつひとつに映るのは、もちろん完全なかたちの自分の顔である。(B4r-v)
第三に、比較的に小さいキリストの体と血があれほど多くの聖体のパンや樽のワインのなかにあるとはどういうことか? 世界中の幕屋で同時に聖別されるとは?
そのようなことを言うなら、受胎時の小さな体に入った魂が、何もつけ加えられることなしで、成長した大人の体全体に広がるのはなぜか? 分割されえない神の存在が、なにもつけ加えられることなしで、また切断されたり変質したりすることなしで、世界を満たしているのはどういうことか?
日々の経験から明らかだが、小さなお香が分解されて煙になってもその成分や量は変わらない。ただ希薄化されて教会中に広がるだけである。もうひとつ、日々水銀を使っている人であれば知っている。それはポットに入れて火にかけると煙になって立ちのぼり、どんな大きな部屋でも満たしてしまう。しかし空気によって冷やされると、それは固まって落ちてきて、そしてまた小さくなる。まさにそれと同じで、キリストの体と血は、しばらくのあいだ大きくなっても、煙が消えるようにパンとワインの外形が体内に消えると、またもとの姿になって永遠にそのまま残る。(B5r-v)
………………
第六の疑問--キリストの体があれほど多くの人に食べられてなくならないのはなぜか? この秘跡がはじめられて以来、長い年月のあいだずっと食べられ続けてきたのに?
このような問いに対して答えるために、キリストはヨハネの福音第6章にて、まず5000人の男(それから女たち・こどもたち)の空腹を大麦パン5個と魚2匹で満たすという奇跡をおこなっている。残ったパン屑12かご分も使ったが。聖体拝受の秘跡を授ける前にキリストがこの奇跡をおこなったのは、上のような反論に答えるためである。もし彼があのように少量の食べものをあのように大勢の者に分け与えて、しかも最初にあった量より多くを残すことができるのならば、何百万という人に自分の体を与えてその体が最初と同様完全なかたちで残ってもまったくおかしくないではないか? ここでキリストの体がしていることは、わたしたちの魂がいつもしていることと同じである。体はいつもいくらかの部分を呼吸によって失うが、それは食べもの・飲みもので補われる。呼吸によって吐き出された部分にもはや魂は入っていないが、その部分が減ったり完全に失われたりすることはない。まさにそのようにキリストの体は多くの聖体に宿りつつ、そのなかから消え、消費されたり変化したりしないのである。(B7r-v)
第七の問い--キリストはあんな不快な場所を通って平気なのか? 例えば、耐えがたいほど息がくさい人の胃とか?
神である彼が極めて不快で不潔な場所を満たし、かつそれに染まらずにいられることは、例えば太陽の光が糞の山を照らしても汚く染まらないのと同じである。不死で無敵の光を帯びたキリストの体は、どんな汚れた・くさい・有害な人の影響も受けないのである。(B7v-B8r)
第八の異論--パンとワインがおなかでグチャグチャになったら、キリストの体はどうなるのか? 天にのぼるのか? それであれば、それはいつも旅をしていることにならないか? あるいは胃のなかに残るのか? それはこのうえなく不快であろう。
もし人の腕が切り落とされたら、腕に宿っていた魂はどうなる? 死ぬ? であるなら、腕を失った人は魂を一部失ったことになる。それとも腕の魂は空中に漂う? いや、魂は空気に宿れない。つまり、切り落とされた腕の魂はもとあった体に戻るだけである。まさに同じように、キリストの体も胃のなかから消えてもともとそれがあった天に戻るだけである。(B8r-v)
第九の反論--聖体が裂かれたらキリストの体も裂かれないのか? 足が胴からもがれたり、とか? どうして骨が折れる音が聞こえないのか? どうして血が噴き出るのが見えないのか?
鏡が割れても、割れる前の鏡と同じで、その破片のひとつひとつに自分の顔が完全なかたちで見えるだろう? まさにそれと同じで、聖体が裂かれてもすべてのかけらにキリストの体が完全なかたちで宿っているのである。(B8v-C1r)
第十問--聖体のなか、キリストの体はグチャグチャになっていないのか? あのように小さな場所に詰めこまれているのに? ふつうに考えたら、体全体が押しつぶされて消えてなくなりそうなものだが?
これは最初の問いに対する答えを見ればはっきりわかるであろう。国がグチャグチャになることなく目に映るのはなぜか、というのと同じである。あるいは人の顔を見た時、その顔が目に映る時、きちんと同じ輪郭や大きさや位置の関係を保っていて、グチャグチャになっていないのと同じである。(C1r)
*****
Thomas Wright
A Treatise, Shewing the Possibilitie, and Conueniencie of
the Reall Presence of our Sauiour in the Blessed Sacrament (1596)
(Excerpt)
STC 26043.5
*****
1596年にこのように堂々とカトリックの立場が
論じられていたことが重要。
同時に、当時の科学的知見のレベルを理解することが
私たちにとって重要。
それから、学術的な議論と笑いの共存関係も。
*****
学生の方など、自分の研究・発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者・タイトル・
URL・閲覧日など必要な事項を必ず記し、
剽窃行為のないようにしてください。
ウェブ上での引用などでしたら、リンクなどのみで
かまいません。
商用・盗用・悪用などはないようお願いします。
コメント ( 0 ) | Trackback ( )