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反律法主義(クリスプ、エドワーズ、オーウェン)

反律法主義

トバイアス・クリスプ
『キリストさまだけ称えよう』
Tobias Crisp (1600-43)
Christ Alone Exalted (1643)
(Wing C6955, C6958)

愛しいみなさん、ここに神秘があります。……神さまの民の悪が
キリストさまの背中にのっているのです。……どういうことでしょう?
すみずみまで探してもイスラエルに悪がまったくないなんてことが
ありえるのでしょうか? そう――とエレミアはいいます――
「イスラエルのとがを探しても見当らない」、と。いや、イスラエルは
毎日罪を犯している、と思うかもしれません。でも、エレミア曰く、
主はその罪を見つけられません。なぜならキリストさまにその悪が
移っているからです。もう罪はないのです、ここにも、そこにも。
(2.86)

泥棒の比喩(クリスプから要約):
ある日泥棒が盗んだものをもって家に帰ってきた。が、友人が来て
彼の命を救うためその盗品をどこかにもって行った。その後警察による
徹底的な家宅捜索があるが、当然盗品はどこにも見つからない……。
この盗品こそ人間の罪であり、これを友なるイエスさまがどこかに
もって行ってくれたのである。
(2.86-87)

このような考えかたがもたらす不道徳について(同上):
キリストさまは常軌を逸したふるまいや男女関係に自由を認めたわけではない。
この自由を「肉の働く機会」(ガラテア5.13)としてはならない。
「神さまのお恵みを濫用してみだらなことをしてはいけません。」
「わたしは確信しています。そして、はっきりいいます。キリストさまに
よって自由にしていただいた人はみな、大胆に、貪欲に、罪を犯すことを
目標に生きるようになっています。キリストさまの血が流れたことによって
罪が許されたと思っているのです。」
(1.227-29; cf. 2.154-56)

-----
このような誰でも救済される、死んだら誰でも天国に行けるという
万人救済(universal redemption)の立場は、当然カルヴァン派の
予定説に対する抵抗であり、ピューリタン的な聖書原理主義一般に
対する抵抗でもあった。

バニヤンの描く「罪人のかしら」(the Chief of Sinners)のように
地獄落ちを極度に恐れ、信仰を守るために常に悪魔と戦っていなければ
ならない、という不条理な不安から人々を解放するために、
よりゆるやかな、心にやましいところのあるすべてのふつうの人間に
優しい教義が説かれるようになった。

クリスプはケンブリッジのクライスト・カレッジの卒業生
(在学1621-24)。ウィリアム・パーキンズの後輩で
ミルトンの先輩。しかもミルトンと同じブレッド・ストリートの
生まれ。

しかし……

律法から解放される =
十戒およびそこから派生する諸道徳に従う必要がない
(実際に、あるいは心のなかで)
人を殺してもいい、
姦淫をしてもいい
両親その他権威者をないがしろにしてもいい
(現代の言葉でいえば)
道徳も倫理も刑法も民法もみな無効
政治権力・警察権力も無視していい

当然、以下のような反発・批判が出る。

*****
トマス・エドワーズ
『壊疽:キリスト教諸分派の誤謬・異端思想・冒涜発言・有害活動一覧』
Thomas Edwards (1599-1647)
Gangraena (1645-)

1.
聖書は神の言葉ではない。(1.18)

21.
魂は体とともに死ぬ。(1.20-21)

22.
すべての被造物は神である。(1.21)

27.
イエス・キリストは神ではない。(1.21)

28.
イエス・キリストはわたしたちと同様原罪で汚れている。
……わたしたちより神聖ということはない。(1.21)

52.
聖霊により天国に行けると確信した者が殺人や飲酒をしても、
神はそれを罪とは考えない。(1.24)

59.
誰もアダムの罪を受け継いでいない。(1.24)

66.
道徳律はすべての信者に適用されるわけではない。信者は道徳律に
従わなくてもいい。道徳律に照らして生きかたを省みなくていい。
キリストを信じる者にこの法の強制力は及ばない。(1.25)

76.
信じる者は罪を犯さぬよう注意し気を配る必要がない。神がそう
望むなら神が気を配って罪を犯さないようにしてくれる。(1.26)

79.
神のこどもたちは犯した罪について許しを求めてはいけない。
その必要はないからすべきではない。許しを求めることは
神に対する冒涜である。(1.26)

105.
新生児を洗礼してもいいのなら十戒を破ってもいい。
そう、新生児を洗礼してもいいのなら姦淫をしても
殺人をしてもいい。(1.29)

120.
新約の下、安息日は守らなくていい。(1.30)

128.
説教師は学ばなくていい。本や学問は廃止すべきである。(1.30)

人を殺すこと、姦淫すること、人のものを盗むことは罪ではない。(2.8)
わたしは「有って有る者」である(2.8)
神はわたしの体のなかにいる。(3.10)
キリストは人間だけでなく、牛や馬のためにも死んだ。(3.36)

ーーーーー
上のようなおかしなことをいう人たちがいて
社会的に大問題、ということ。

エドワーズはケンブリッジ大の牧師だったりしたが、
アルミニウス派に傾く国教会から排除された。

*****
『この国に福音を広めるための提案』
Proposals for the Furtherance and Propagation of the
Gospel in This Nation (1652)

以下のキリスト教の原則に反する説教および印刷物出版をすべての
人に禁じていただきたい。聖書がはっきり断言しているように、
これらを信じることなしに救済はありえない。

1.
神について知り、また神の意に適う生きかたをするためには、
聖書に従わなくてはならない。聖書を信じない者、聖書以外の方法で
真理や神の心を知ろうとする者は天国に入ることができない。

3.
神は創造主であり、天国においでになる神聖なるお方であり、
すべての被創造物とは永遠に異なる存在である。

4.
イエス・キリストのみが神と人間の仲裁者である。このお方について
知らない者は天国に入れない。

5.
このイエス・キリストはまさしく神である。

10.
この主イエス・キリストはエルサレムで十字架にかけられて死に、
生き返り、そして天に昇ったお方のことである。

12.
すべての人間は本質的に罪と悪行に塗れて死んだ存在であり、
生まれ変わり、改悛し、そして信じることなしには天国に行くことができない。

14.
どのようなものであれ、またどんな口実や根拠があろうと、
罪とみなされることをする者は地獄に落ちる。

15.
すべての死者は墓から立ちあがり、最後の審判を受ける。これにより、
天国で永遠に生きる者と、地獄で永遠に呪われる者がわけられる。
(5ff.)

-----
共和国樹立後、反律法主義やそれがもたらす社会の混乱を
抑制すべく、ジョン・オーウェン(思想的にはカルヴァン派
にして黙示録的終末論者)らクロムウェルにとり立てられた
聖職者が出版したもの。キリスト教のABCの再確認。
オーウェンは軍の牧師やオックスフォード大の総長などを務めた。

*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者、タイトル、URL,
閲覧日など必要な事項を必ず記し、剽窃行為のないように
してください。

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商用、盗用、悪用などはないようお願いします。


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カルヴァン派:From Gifford, Briefe Discourse

ジョージ・ギフォード
『小論:ふつうのキリスト教徒の信仰、いわば田舎神学の
問題について:田舎神学を対話により完全論破』

アテオス(無神論者、訳すなら「悪男」)の言葉:
(自分の教区の牧師は……)
気のいい連中が飲み屋に集まったら、だいたいおごってくれる。
けんかか何かがおきた時には、みんなをボーリングやトランプや
飲み屋に誘ってくれて、うまく仲直りさせてくれる。……
これまで会ったなかでいちばんやさしい人、とってもいい人。
慈愛を教えてくれる人。
(1v, 2r)

ゼロテス(熱く神を信じる人、「熱男」)の言葉:
君のいう牧師はただの飲み友達にすぎません。……
よくある光景です、酔っぱらいが集まって酒を飲んでいて、
本来それを咎める立場の牧師が実はいちばんの酒飲み
ということです。……
さて問題です、からだを殺す殺人者と魂を殺す殺人者、
どちらが悪い人でしょうか?
(3r, 6r)

アテオス:
そうか、君はさ、あれだ、あの何にでも口をはさんでくる、
やたら細かくて厳格でうるさいタイプなんだ。遊びなんか許さないとか、
そういうね。じゃあどうすればいいの? やることなくなっちゃうじゃん?
ぶっすーって顔してすわって本ばっか読んでろ、って? ……
昔の人たちのほうがよかったよ。今じゃみんな冷たくなって。
昔はみんな仲よかったし、楽しかったのに。もう近所づきあいもなくなって、
みんな自分のことばかり考えてる。っていうか、むしろ他人を
いじめることばかり考えてる。……[アテオスの教区牧師は]
口やかましく人を支配しようとしない。だからみんなに好かれてる。
偉い人からも。……お金もたいしてないのに
家をちゃんとしてるし、貧しい人たちの世話もちゃんとしてる。
(2v, 3r, 5r-v)

ゼロテス:
そういう話から君が肉の欲に耽るタイプということがわかります。……
だんだん臭ってきました、君がどれほど無知なのか……
君の牧師がどれだけ不適格なのか。……
[アテオスの信仰は]確かに十分です。あなたを救済するのに、
ではなくローマ人への手紙1章[20節]で聖パウロがいうように、
問答無用であなたを地獄に落とすのに。
(2r, 31r)

アテオス:
ぼくは善意をもって生きてるし、人を傷つけたりしない。
心のなかで傷つけるようなことを考えたりもしない。何よりも神様を
愛していて信じてる。これで十分じゃない? ……
知識があると人は悪くなる。やれ聖書だ、聖書だっていう人たちが
だいたいいちばん嫌な感じ。……
[ピューリタンの説教は]いつも延々とやってるし、熱すぎるし、
厳しすぎるし、みんなに対して地獄堕ちだとかいうし。
ほんとくだらない、天国行きとか地獄堕ちの予定とか。
(7r, 9v, 24v)

ゼロテス:
聞いたことがありませんか? 聖パウロはエペソ人への手紙1章4節で
こういっています。神はわたしたちを神聖な者として選んでくださっています、
すでこの世がつくられる前に。

アテオス:
なにそのやな話? 神様が自分を選んでくれたってなんでわかるの?
……神様がそういったの?

ゼロテス:
君にとっては嫌な話でしょうね。君は善がすべて嫌いですから。
自然に、何も考えずに生きている君に神聖なことが理解できるはず
ないですからね。……君は異端なのです。そうでなければ聖書のなか
神の御言葉が聞こえてくるはずです。誰が天国に行き、誰が地獄に
向かっているか、わかるはずです。
(60v-61r)

*****
George Gifford
Briefe Discourse
(1581, 82, 83, 98, 1612, 34, 35)

*****
ギフォードもカルヴァン派聖職者で
16世紀末の人気作家。

*****
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十戒:Perkins

十戒:宗教改革後(2)
ウィリアム・パーキンズ
『基礎キリスト教6原則』より


後半六つの戒律はどのようなものですか?


隣人の名誉や命や清らかさや財産や名声を傷つける行為
[をしてはいけない]ということです。心のなかで思うだけでも、
あるいは意に反して自然に浮かんでくるだけでもいけません。

神の定めた戒律をひとつでも破った人は、たとえそれが一生に
一回だけのことであっても、たとえ一回心に思っただけだったとしても、
この罪のために永遠に呪われる危険を招くことになります。
(B4v)

-----

では、よいおこないをしても永遠の命を得られないのですか?


そうです。完璧な正しさそのものである神様から見れば、
わたしたちにできるもっともよいおこないでも、天国ではなく
地獄に値するものです。だからわたしたちは正しく生きてきた
自分を神に認めてもらうというような希望は棄て、
むしろそんな自分を恥じなくてはなりません。
(B6v-B7r)

-----

神の言葉を説教する意味は何ですか?

まずそれは救済に選ばれた者の信仰を大きくします。
逆に滅びに定められた者は、心が腐っていますのでさらに悪に走り、
それゆえますます大きな罰を受けることになります。
(C1r)

*****
William Perkins
From The Foundation of Christian Religion
(1591, 92, 97, 1601, 06, 15, 17, 18, 29,
36, 42, 49, 54, 60, 71, 77, 82, 1723)

*****
副題は『説教をしっかり理解するために、また聖餐を
進んで受けられるように、無知な人が学ぶべきこと』
(And It Is to Bee Learned of Ignorant People,
That They May Be Fit to Hear Sermons with Profit,
and to Receiue the Lords Supper with Comfort)

16世紀末のカルヴァン派ベストセラー。
パーキンズは「第二のモーセ」と称された。

副題の「無知な人」とは、次のように考えている人のこと:

神様は天国にすわっているおじいさん。(A6v-A7r)

どう生きようが死の床で、神様ご慈悲を、といって子羊のように
おとなしく死ねば天国に行ける。

説教師が立派なのは説教壇にいるときだけで、そこから降りたらただの人。

人はみな罪人とか、隣人を自分のように愛せとか……
牧師の話なんてもうみんな知っている。

十戒をいえば祈ったことになる。

姦淫、盗み、殺人その他、人を困らせることをしない人が正しく立派な人。

飲み屋・パブでみんなで飲むこと、飲んだくれることが友情の証、
性格のいい証拠。

このような「無知がはびこっているところには当然罪がはびこっていて、
罪がはびこっているということはそこは悪魔の支配下で、
そして悪魔の支配下にある人々は地獄に落ちてしまう」、
これではいけない、という正義感からパーキンズは書いている。
(A2r-A3r)

*****
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十戒:Dering and More (1572)

十戒:宗教改革後(1)
エドワード・デリング、ジョン・モア
『簡略版重要教理問答』


問:
すべての人が生きているあいだもっとも気にかけるべき
ことは何ですか?

答:
すべての人がもっとも注意すべきは次の二点です。
第一に、どうしたらわたしたちは、最後の審判の日、
神の前に立った時に救っていただくことができるのか、
そして永遠の生をいただくことができるのか、
ということです。
(A2r)

問:
第7の戒律は何ですか?

答:
「あなたは姦淫してはならない」です。

問:
この戒律の意味は何ですか?

答:
この第7の戒律でわたしたちはまず姦通、姦淫、その他
からだを汚すことすべてを禁じられています。次に、
あらゆる不純な考え、心のなかの性欲を禁じられています。
さらに、そのような不純な行為や考えにつながりうる
すべてのことを禁じられています。たとえば、清らかでない
ふるまい、汚らわしい会話や歌、いやらしい服装、
卑猥でくだらない遊び、売買春を目的とする店に行くこと……
などです。
(B2v-B3r)

問:
あなたはこれらすべての戒律をひとつも破ることなく
守ることができますか?


これらは全能の神様の命令であり、それを完璧に守ることは
肉をもつ人間には不可能です。わたしもできることは
すべてしていますが、それでも毎日心のなかで、言葉で、
そして行為として、これに背いてしまっています
(A4v-B1r)。

*****
Edward Dering, John More
A Briefe and Necessary Catechisme
(1572, 73, 75, 77, 81, 90, 97, 1606, 14)
(散文)

エリザベス治世下のベストセラー教理問答集。

*****
プロテスタントの十戒該当箇所(出エジプト記、口語訳)

1.
あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
(20.3)

2.
あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。
上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の
水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。
あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、
わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、
わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、
千代に至るであろう。
(20.4-6)

3.
あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えては
ならない。
(20.7)

4.
安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いて
あなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、
主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。
あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、
家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。
主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべての
ものを造って、七日目に休まれたからである。
それで主は安息日を祝福して聖とされた。
(20.8-11)

5.
あなたの父と母を敬え。
(20.12)

6.
あなたは殺してはならない。
(20.13)

7.
あなたは姦淫してはならない。
(20.14)

8.
あなたは盗んではならない。
(20.15)

9.
あなたは隣人について、偽証してはならない。
(20.16)

10.
あなたは隣人の家をむさぼってはならない。
隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、
またすべて隣人のものをむさぼってはならない。
(20.17)

*****
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十戒:Whitford (1530)

十戒: カトリック時代

リチャード・ウィットフォード
『家の主など指導者や長たる者の務め』(1530)より

神さまの定めた戒律は十あります。最初のものは、よその宗教の
神々ではなく唯一の神さまを信じなくてはならないということです。
ただひとりの神さまを何よりも愛し、たたえ、そしておそれなくては
なりません。

第二、わたしたちはむだに神さまの名を口にしてはいけません。
神さまにかけて誓ったりしてはだめです。

第三、神さまの日には神さまのことを深く心に思い、また心からの
礼拝を捧げなくてはなりません。労働など、この世で生きるための
利益のある仕事をしてはいけません。

第四、わたしたちは尊敬の気持ちをもって、またしかるべく
へりくだって、両親、つまり父と母をたたえなくてはなりません。
そうすれば(神さまが約束してくださっているように)長生き
できるでしょう。

第五、わたしたちは誰であれ殺してはなりません。本当に殺しては
いけませんし、心のなかで殺したいと思うこともだめです。
誰かを憎むだけでもだめです。殺したいと思っている人、
心のなかで誰かを憎んでいる人は、すでに殺人者、人殺しを
しているのです。

第六、わたしたちはみだらなことをしてはいけません。

第七、わたしたちは盗みをしてはいけません。

第八、わたしたちは嘘の証言をしてはいけません。嘘をついては
だめです。

第九、わたしたちは、誰か他の人と結婚している人をほしいと
思ってはいけません。

第十、わたしたちは他の人のものをほしがってはいけません。

ーーーーー
[その他]

こどもたちが話すようになったらすぐに神に仕えるように
教えてください。主の祈り、アヴェ・マリアの祈り、
そして使徒信条がいえるように教えましょう。
(B2r ff.)

[主の祈りと使徒信条を]食事のたびに、少なくとも
一日一度は大きな声で読み聞かせてください。……
家のすべての人がこれらを言えるように……
必要に応じてあなた自身が教えなくてはなりません。……
少なくとも週に一度は彼らに読ませて聞くように
してください。幼い者も老いた者も逃げないように
しなくてはなりません。……彼らが少なくとも一日三回は
練習するよう命じてください。しなければ厳しい罰を
与えてください。
(C1r)

[姦淫を禁じた戒律6(プロテスタントにおける7)は]
淫らな行為を禁じています。ここで意味されているのは、
許されない淫らな行為だけでなく、そこにつながりかねない
すべての挑発行為、いやらしい、軽く見られるような
ふるまいも含まれます。たとえば口づけしたり、
抱きしめあったり、汚らわしいところをさわったり、
そそるような目や表情で見つめたり……禁じられたことを
したい、してもいい、と心に思いながらこのようなことを
すれば、この戒律に反することになります。

[このようなことがいけない理由の例]
友人の忠告やより条件のよい結婚話があったりして
熱い愛がすぐに冷え切ってしまうかもしれないから。
(E1r-v)

*****
Richard Whitford
A Werke for Houshoulders, or for Them That Haue the Gydynge or
Gouernaunce of Ony Cõpany (1530, 1531, 1533, 1537)
(散文)

*****
十戒の数えかたは宗派によって若干違う。

*****
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From Whichcote, Moral and Religious Aphorisms (1753)

ベンジャミン・ウィッチカット
『道徳・宗教格言集』より(2)

24
すべてのものには、外的な力により乱されても
元の、そして真の状態に戻ろうとする性質がある。
神の定めた道徳においても、同じように考えるべき
ではないか? 正しく生きることこそ魂の健康であり、
真の姿、自然な姿である。これに対して悪事をなす
者の魂は病んでいるのである。

42
人とは本来邪悪なことを嫌うものである。なぜなら
悪とはもともと人のうちにないものだから、
もともと人のうちにあるのは善だからである。
Cf. Augustine/Pelagius, Calvin/Arminius

48
真の満足が得られるのは、心が神の求めること、
正義の掟に適うことをしている時だけである。

62
心のありかたをきちんと制御すること、これが
いちばん大きな自由である。

71
人としてふさわしいこと、人にしかできないこととは、
頭を使って正しいことをすること、まさにこれだけである。

76
正しいことをしないこととは神に反することである。
正しく判断してしなくてはならないこと、神ご自身が
求めること、この二つはまったく同一のものである。
理性とは人の暮らしを統治する神の使い、むしろ
神の声そのものである。

84
正しいこととは神の掟によって定められているのであり、
それをこの世の掟とすべきである。

87
神を信じる目的は人間らしく生きること、獣や
悪魔にならないようにすることである。わがままに生きて
体の要求に溺れれば人は獣になってしまう。
思いあがったり悪意を抱くと人は悪魔になってしまう。

100
天国も地獄も、その土台はわたしたちの心のうちにある。
天国とはまず純粋な心の状態、心が神の定めることを
している状態、正義の掟に従っている状態のことである。
逆に罪悪感に駆られて良心が痛んでいる状態、正義の掟に
反している状態が心の地獄である。罪悪感が地獄の炎を
燃やすのである。
Cf. Milton, Paradise Lost

114
人が人の心を失ういちばんの原因は、誤ったかたちで
燃えあがらんばかりに熱く神を崇めることである。
キリスト教徒でなくても心優しい人のほうが、
狂ったように熱いキリスト教徒よりも神の意に
適っている。
Cf. "Puritanism"

(つづく)

*****
Benjamin Whichcote
From Moral and Religious Aphorisms
ed. Samuel Salter (1753)


24


42


48


62


71


76


84


87


100


114



*****
詩ではなく散文。ケンブリッジのプラトン派。

カルヴァン派的な熱狂・教条主義・排他性から
日々の道徳の指針としてのキリスト教へ。

*****
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From Clagett, "Of the Humanity and Charity of Christians"

ウィリアム・クラジット (1646-1688)
「キリスト者の人間性と思いやりについて」

I.
まず大事なのは、誰でももっているはずの
他に対する思いやり、そして神を敬う心である。

1. 他に対する思いやり
人は誰でも他に対する思いやりをもっているはずであり、
当然互いに対して優しく親切にしなくてはならない。
苦痛・貧困・飢餓・渇き・恐怖・悲しみなどが
自分に降りかかったらどれだけつらく苦しいか、
わかっていれば、同じ状況にある他の人のつらさ、
苦しさもわかるはずである。これらは人であれば
誰でも経験することであり、同じ人間として
生まれてきた以上、わたしたちは自分以外の人の
つらさも感じることができる。

このように他の人の不幸を感じればつらさが
増すわけであり、つらさが増していいことは
ないように思われるかもしれないが、同時に
わたしたちは生まれながらにしてこのつらさを
解消する方法を知っている。他の人の不幸を
解消すればいいのである。このような優しさを
もつ、だから人間は獣より優れているのである。
生まれながらにして獣は自分のことしか考えられない。
仲間の獣が感じている苦しみを感じない・・・・・・。
神は、この世における生きもののなか、人間にのみ
仲間の悲しみ・喜びを感じる力を与えてくれた。
仲間が感じている不幸を感じる力、互いに手を
差し延べあい助けあう優しさを与えてくれたのである。

このような道徳的な心は、伸ばすも潰すもわたしたち
しだいである。もともとわたしたちは優しさを
もって生まれている。にもかかわらず、悪い考えや
習慣が身についてしまうと、人は本来の優しさを忘れ、
他の人の感じていることを気にかけなくなる。
しかし、不自然な力が外からかからないかぎり、
わたしたちは生まれもった優しさを忘れて冷たく
なったりしない。人として最低限必要なことを
教えられていれば誰でも他に対して哀れみや
共感を抱くはずである。田舎に生まれ学校での
教育を受けていない人、職業上地位の高くない人でも、
人の気持ちを理解することができる。そして
ほとんどの場合、互いに助けあう。そうすることで
自分が損をするような例外的な場合は違うかも
しれないが。

*****
William Clagett
From "Of the Humanity and Charity of Christians"









Wing C4387

*****
キーワード:
感受性 sensitibity
広教派 latitudinarian, "latitude-man"

*****
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イギリス魔女裁判:ロッシントン、1605年

イギリス魔女裁判:ロッシントン、1605年


ロッシントンのアン・ジャッドの証言
担当ヒュー・チルダーズ
神のご加護によりジェイムズ陛下がイングランド、
フランス、アイルランドの王・教会首長となって2年目、
スコットランド王・教会首長となって38年目の
2月6日に聴取:

上記年月に尋問を受けたこの証人は次のように言っている。ロッシントンに住むレナード・ジャーディの妻ジョーン・ジャーディは、ピーター・マーフィンの妻のお産の手伝いに呼ばれていたのだが、こどもが生まれて三、四日たつまでマーフィンの家にこなかった。また、きても彼女はマーフィンの妻とともに食べたり飲んだりしなかった。それはピーター・マーフィンもきて一緒に飲んでくれなかったからだった。この証人がジョーンを家に送った時にも彼女は、ピーター・マーフィンは一緒にきて飲んでくれなかった、と言い、本当よ、きてくれればよかったのに、って言っておいて、と言った。次の日、用があってこの証人がジョーン・ジャーディの家に行くと、ジャーディの召使いのジェーン・トライアが彼女に 「お姉さんと赤ちゃん、元気?」 [ピーター・マーフィンの妻はこの証人アン・ジャッドの姉] と尋ねた。この証人が 「かなり弱ってる」 と言うと、ジョーン・ジャーディは次のように言った。「気をつけて。まだ峠を越えていないから。まだまだ悪くなる」。

さらに、ピーター・マーフィンの妻、ジャネット・マーフィン[姉]が昨年12月15日(土)の夜にこの証人に言ったことについて問われ、この証人はこう言っている。姉は言った、「アン、寝てた?」--証人「ううん、起きてた」--姉「あたし、魔女にやられてる」。その次の月曜か火曜にロッシントンのウィリアム・ドルフィンの妻キャサリン・ドルフィンがジャネットに会いにピーター・マーフィンの家にきた時、この証人はジャネット・マーフィンが「どう?」と尋ねるドルフィンの妻にこう言ったのを聞いた。「ダメ、弱ってる、こんなにひどくなったのはじめて」。ジャネットはさらに言った、「あの女最悪、あたし殺される、もう治らないかも」。ドルフィンの妻が「誰のせいなの?」と聞くと、ジャネットは言った、「あの女呪ってやる。ジャーディんとこのジョーンがくるまであたし元気だった」。


ロッシントンのウィリアム・ドルフィンの妻
キャサリン・ドルフィンの証言
ドンカスターにて1604年2月6日に聴取
担当ヒュー・チルダーズ町長:

この証人は言う、昨年11月18日(火)にロッシントンの労働者ピーター・マーフィンの家にいた時、そのピーターの妻が出産後体調を崩して寝こんでいたのでこう聞いた、「調子はどう?」。すると彼女は答えた、「こんなにひどくなったのはじめて。ほんときつい。土曜日にジャーディんとこの奥さんがきてからおかしくなって。あの夜に魔女にやられて、それでお粥とかしか食べれなくなっちゃって」。

(さらに、ジャーディの妻は魔法をかけられて病気になった人を治せるという話を聞いたことがあるか訊かれ、この証人は、ある、と答えて次のようにいった。) 六年くらい前にこどもが病気だった時に助言がほしくて彼女のところに連れて行ったら、ミルナーの奥さんがいいと薦められたのでそこへ行って、そしたらその奥さんがジャーディの奥さんのほうがいいと言うのでまたそっちに戻って、ミルナーの奥さんが言ったようにジャーディの奥さんにどうすればいいか訊いたら、彼女は、家に帰って赤ちゃんを揺り籠に寝かしておけばすぐに治る、と言った。さらにこの証人は、ジャーディの奥さんはどんな人でも魔法にかけられた人を治せると思っている、近所の人もみんなそう思っている、と言った。


ロッシントンのピーター・マーフィンの調書
ジェイムズ陛下がイングランド王になって
3年目の10月16日に聴取
担当ヘンリー・ライリー町長、ジョン・ファーン記録官、
ジョン・キャリル参事:

この証人は言う、出産直後であったこの証人の妻のところにジョーン・ジャーディがきて二日以内に赤子が死に、またその直後に妻も病気になって母乳が血に変わった。

(つづく)

*****
From "Alleged Witchcraft at Rossington, near Doncaster, 1605"
The Gentleman's Magazine 202 (May 1857): 593-95
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015030568946

*****
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予定説Q&A: ジュネーヴ聖書1583より

「予定説、神の言葉と秘跡についてのQ&A」
ジュネーヴ聖書(1583)より

Q.
どうして人は宗教の問題についてあれほど意見があわないのでしょうか。
A.
それは誰もが同じ程度の知識をもっているわけではないからです。また、誰もがキリストによる救済の知らせを信じているわけではないからです。

Q.
それはどうしてですか?
A.
天国において永遠に生きられるよう定められた人だけが、救済の知らせおよびキリストの教えを信じることができるからです。

Q.
すべての人が天国に行けるよう定められてはいないのですか?
A.
神の怒りが注がれるべき杯として破滅に定められた人もいます。神の慈悲が注がれる杯として天国の栄光に定められた人とは反対に。

Q.
正義であるはずの神が人を地獄行きに定めていいのですか?
A.
もちろんです。すべての人は罪をもっていますので地獄に落とされて当然です。そんな罪深い人間の一部を救済されるよう定め、真理を知らせてくださっているのですから、まさに神の慈悲には驚くばかりです。

Q.
神の定め・決定どおりになるのなら、人はもう何も考えずに生きればいいということになりませんか? よい人生を送った人でも地獄落ちに定められていれば地獄に行くわけですし、逆に悪い人生を送った人でも天国行きと定められていれば天国に行くわけですから。
A.
それは違います。天国に選ばれた人が常によいことをしようと考えない、などということはありえませんし、逆に地獄行きに定められた人がよいことをしようと考えることもありえません。なぜなら、よい意志をもちよいおこないをすることは神の霊が宿っている証であり、これは天国に選ばれた人のみに与えられるものだからです。この神の霊によって信仰が生まれ、この信仰によって人はキリストと一体となり、そして定められた天国にふさわしい存在として清らかになっていくのです。そのような人は、天国行きに定められているのだから好き放題に生きればいい、と一度でも考えるような愚か者ではありません。むしろ、救い主イエスとしての神が彼に定め用意したよいおこないをして生きることを心がけます。それが天国に選ばれた人の心の安らぎ、支え、自信の源であり、また神の栄光なのです。

Q.
でも、天国で永遠に生きられるよう自分が定められているかどうか、どうしたらわかるのですか?
A.
日々魂が生きていくなかにいろいろなヒントがあります。神に選ばれた人においては肉体だけでなく魂も生きていますから。感覚やさまざまな身体機能によって体が生きていることがわかるように、魂もいろいろ感じ、自分が生きていることや永遠に生きるであろうことを感じるのです。

Q.
魂が感じるヒントとはどんなものですか?
A.
良心の咎め、反省の習慣、罪を憎み正義を愛する心、永遠の生を求めてキリストを信じる気持ち、苦悩のなかにあっても感じられる心の安らぎ、聖霊によって与えられる自信、神の恵みに対する感謝、すべての苦境を成長の機会ととらえる思考、などです。

Q.
それらを時折感じるような人は滅びないのですか?
A.
そのような人が滅びることはありえません。一度定めたことを神が変えることはなく、選んだ人に与えた恵みを神が撤回することもありません。一度天国に受け入れた人を追い出すこともありません。

Q.
では、どうしてダヴィデに倣って神に「顔を隠さないでください、聖霊をわたしたちからとりあげないでください」と祈る必要があるのでしょうか?
A. そのように祈ることによってわたしたちは、神を疑ってしまう心の弱さを告白しているのです。でも同時に、わたしたちがそう祈ることができるのは、神がわたしたちの祈りに応えてくれると確信しているからでもあります。ご自身のお考えのとおりに、またわたしたちに約束してくれているとおりに。

(つづく)

*****
"Certaine Questions and Ansvveres
Touching the Doctrine of Predestination,
the Vse of Gods Worde and Sacraments"
From Geneva Bible 1583





次のページに現代綴り版あり(含ミス)
http://www.truegospel.net/GS/1843/43268.htm

*****
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From Glanvill, My Lord Bacon's New Atlantis

ジョウゼフ・グランヴィル
「ベイコン『ニュー・アトランティス』概要」より

神に関する愚かで恥ずべき考え--神性を汚し、
人のよいおこないを妨げ、神を敬う多くの人の心を
悩ませ挫く、そんな思想--が広まっていたが、
それに対して彼ら[熱狂的でない聖職者たち]は立ちあがった。
彼らは神の善良さ、人間に対する神の無限の愛を説いた。
神の愛を愚かな願望として退ける者、
神の正義を残酷なまでに厳格なものとする者、
神は理性ある人間の大多数を永遠に憎んでいて
破滅させたがっていると考える者、そんな独裁者・
権力者に神を仕立てあげたがる者に対してである。
このような感じの悪い陰鬱な考えかたに対し、
彼らは毅然と立ちあがった。思えば、あれは
神の清らかさ、善良さを主張すれば非難と憎悪と
ひどい迫害の対象となるような時代であった。
そんな時に彼らは、神の本質と属性について常識的な
見解を示した。神みずから聖書で明かしていることに
合致し、また我々人間の理性的判断にも適う議論を
提示したのである。彼らは常々語っていた、
無限に善良なる神がみずから創造したものの不幸を
もくろんだり、ましてや喜んだりするはずがないと。
神は身勝手な意思にしたがって何かをなすわけではない、
むしろ完璧なる彼の完璧なる意思に従って行為するので
あると。そもそも身勝手な行為とは不完全の証、
無能の証であると。いと高き存在である神が
正義の法に従わないなどということはありえないと。
人が望む望まないにかかわらず、理解している
していないにかかわらず、根源的に、また永遠に、
善良さこそ真理であり正しさであると。この善良さこそ、
世界に対する神の言葉や行為の源であると。
神を称えたいなら、神の完璧さを正しく理解し、
その理解を我々の言葉と行為で示さなくてはならないと。
善良さこそ道徳の目指すものであると。善良でない
権力とは暴虐にすぎない、善良でない知恵は謀略・
狡猾にすぎない、善良でない正義は冷酷にすぎない、と。
たとえ褒め称えられても神はお喜びにならないと。
正しいかたちで神を褒め称えないならば、つまり、
神を愛するよう人を促すような、神とともにあって
幸せと感じられるような、そんな褒め称えかたでないならば。

. . . . . . . . . . . . . . . . .

のぼせあがった妄想家たちはキリストの死が
人に与えた正義を曲解し、道徳を無意味なもの、
卑しいものと嘲っていた。これに対して
正しい聖職者たちは、道徳・美徳の必要性を主張し、
また擁護した。彼らは説いた、まさに道徳・美徳を
最高に発達させたものがキリスト教であると。
十戒の石板一枚目にあるような神への義務のみに従う
宗教には何の意味もない、二枚目に刻まれた
道徳的義務を果たすことのほうが重要である、と。
熱く信じ、身を捧げ、説教を聴き、祈る、など
信仰するふりは極悪人にもできる、
それはただの模倣や習慣かもしれない、
野心や保身のためかもしれない、結局、
そんな信仰の形式にすぎないのだと。本来の
信仰とは、利己心を克服し、感情を支配し、
欲を抑えることに他ならない、真に正しいことを
神に対して、また他の人に対してすることに
他ならない、と。

(つづく)

*****
Joseph Glanvill
From The Summe of My Lord Bacon's New Atlantis
(1676)

They ["the Anti-fanites", i.e., anti-fanatical divines] took notice, what unworthy and dishonourable Opinions were publish'd abroad concerning God, to the disparagement of all his Attributes, and discouragement of vertuous Endeavours, and great trouble and dejection of many pious Minds; and therefore here they appear'd also to assert and vindicate the Divine Goodness and love of Men in its freedom and extent, against those Doctrines, that made his Love, Fondness; and his Justice, Cruelty; and represented God, as the Eternal Hater of the far greatest part of his reasonable Creatures, and the designer of their Ruine, for the exaltation of meer Power, and arbitrary Will: Against these sowr and dismal Opinions They stood up stoutly, in a time when the Assertors of the Divine Purity and Goodness, were persecuted bitterly with nicknames of Reproach, and popular Hatred. They gave sober Accounts of the Nature of God, and his Attributes, suitable to those Declarations of himself he hath made by the Scriptures, and our Reasons: They shew'd continually how impossible it was that Infinite Goodness should design or delight in the misery of his Creatures: That God never acts by meer arbitrary Will, but by a Will directed by the Perfections of his Nature: That to act arbitrarily is Imperfection and Impotence: That he is tyed by the excellency of his Beeing, to the Laws of Right, and Just, and that there are independent Relations of True and Good among things, antecedent to all Will and Vnderstanding, which are indispensible and eternal: That Goodness is the Fountain of all his Communications and Actions ad extra: That to glorifie God, is rightly to apprehend and celebrate his Perfections, by our Words, and by our Actions: That Goodness is the chief moral Perfection: That Power without Goodness is Tyranny; and Wisdom without it, is but Craft and Subtilty; and Justice, Cruelty, when destitute of Goodness: That God is not pleased with our Praises, otherwise than as they are the suitable Actings of his Creatures, and tend to make them love him, in order to their being happy in him.

. . . . . . . . . . . . . . . . .

And because Morality was despised by those elevated Fantasticks, that talk'd so much of Imputed Righteousness, in the false sense; and accounted by them, as a dull, and low thing; therefore those Divines labour'd in the asserting and vindicating of this: Teaching the necessity of Moral Vertues; That Christianity is the highest improvement of them; That the meer first-table Religion is nothing, without the works of the second; That Zeal, and Devoutness, and delight in Hearing, Prayer, and other externals of worship, may be in very evil men: That Imitation, and Custom, and Pride, and Selflove may produce these: That these are no more then the Forms of Godliness: That the power of it consists in subduing self-will, and ruling our passions, and moderating our appetites, and doing the works of real Righteousness towards God, and our Neighbour.

http://quod.lib.umich.edu/e/eebo/A42813.0001.001

partly qtd. in
R. S. Crane, "Suggestions toward a Genealogy of
the 'Man of Feeling'", ELH 3 (1934): 205-30 (208-9)

*****
キーワード:
感受性 sensibility
広教派 Latitude-men

カルヴァン派に対する広教派の反論。
18世紀の感受性の議論の起源のひとつ。

*****
散文。日本語訳の改行は任意。
散文よりも詩(のような体裁)のほうが
実は読みやすい。

*****
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イギリス魔女裁判:データ

イギリス魔女裁判:データ


1. 件数

時期
起訴された人数(人)
処刑された人数(人)
処刑率

ジュネーヴ
1537-1662
318
68
21

ルクセンブルク
1509-1687
547
358
69

ノール県(フランス)
1542-1679
187
90
48

フィンランド
1520-1699
710
115
16

ノルウェー
1551-1760
730
280
38

エセックス州(イングランド)
1560-1672
291
74
24

スコットランド
1563-1727
402
216
54

ハンガリー
1520-1777
932
449
48

スイスでは約10,000人、ポーランドでは約15,000人、
ドイツでは50,000人以上が魔女として起訴されたと
いわれている。

*****
2. 性別

地域
時期
男性(人)
女性(人)
女性率(%)

ドイツ南西部
1562-1684
238
1,050
82

ジュネーヴ
1537-1662
74
240
76

ルクセンブルク
1519-1623
130
417
76

ノール県(フランス)
1542-1679
54
232
81

アラゴン
1600-1650
69
90
57

フィンランド
1520-1699
316
325
51

ロシア
1622-1700
93
43
32

ハンガリー
1520-1777
160
1,482
90

エセックス州(イングランド)
1560-1675
23
290
93

*****
3. 年齢

地域
時期
年齢のわかっている魔法使いの数(人)
50歳以上(人)
50歳以上(%)

ジュネーヴ
1537-1662
95
71
75

ノール県(フランス)
1542-1679
47
24
51

エセックス州(イングランド)
1645年のみ
15
13
87

ヴュルテンベルク?
1560-1701
29
16
55

セイラム(マサチューセッツ州)
1692-1693
118
49
42

*****
4. 魔法使いによってなされたとされた犯罪の種類
(いつ? どこで?)

犯罪の種類
起訴数(件)
起訴された人数(人)

身体に対する危害、あるいは財産に対する損害を加えた
462
271

悪霊に祈願した
28
29

財宝、あるいは紛失物を魔術で探した
9
11

人を殺そうとした、あるいは傷つけようとした
2
2

魔術のために死体を利用した
1
1

予言をした
1
1

魔法使いに相談した
1
1

*****
5. 法令(イギリス)

犯罪の種類
初犯 1563
初犯 1604
再犯 1563
再犯 1604

財宝、あるいは紛失物を魔術で探した
懲役 1年
懲役 1年
終身刑
死刑

魔術で人に危害を加えた、あるいは財産に損害を与えた
懲役 1年
死刑
死刑
死刑

魔術で人を殺した
死刑
死刑
死刑
死刑

墓から死体を掘り出した
……
死刑
……
死刑

悪霊を呼び出した
死刑
死刑
死刑
死刑

魔術で人に危害を加えようとした、あるいは財産に損害を与えようとした
懲役 1年
懲役 1年
終身刑
死刑

魔術で人を殺そうとした
懲役 1年
懲役 1年
終身刑
死刑

魔術で人を 「道ならぬ恋」 に落とそうとした
懲役 1年
懲役 1年
終身刑
死刑

*****
1-3
Brian P. Levack, The Witch-Hunt in Early Modern Europe, 2nd ed.

4-5
A. D. J. Macfarlane, Witchcraft in Tudor and Stuart England

*****
15年くらい前につくったノートから。
何かの参考までに。


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From Whichcote, Moral and Religious Aphorisms

ベンジャミン・ウィッチカット
『道徳・宗教格言集』より


理解を放棄して、理解できないことを信じてはいけない。
理解できないことを信じる時でも明確な理由が必要である。

神を信じる人とは理性的に考えることができる人である。

信仰とは、一連の教え、儀礼に則った礼拝、熱い思い、
定式化された言葉、他に対するあら探し、などのことではない。

信仰とは協調性、そして愛である。分離や対立をもたらすような
信仰など信仰ではない。

信仰をもっていても意味がない、生きかたや心を
改める気がないかぎり。

真心こそ神について正しく知る近道である。

理性的でない信仰、根拠のない信仰はただの迷信である。
それは神がつくった宗教ではない。

わたしたちは過ちを犯す。知らないこともたくさんある。
だからたがいに優しくならなければならない。間違って
いるかもしれないから、自信満々に自分の意見を人に
押しつけてはいけない。独断的、強圧的になってはいけない。
不確かな教え、正しくないかもしれない真理よりも、
他に対する愛のほうが大切である。

真の友であれ。あるいはよく知らないどこかの人であれ。
真の友なら喜んで善をなすだろう。よく知らないどこかの人は
意地悪なことをしないだろう。

美しい性格、優しいふるまいこそ、キリスト教における
最高の愛である。

*****
Benjamin Whichcote
From Moral and Religious Aphorisms


We are not to submit our understandings to the belief of
those things that are contrary to our understanding. We must
have a reason for that which we believe above our reason.

He that useth his reason doth acknowledge God.

Religion is not a system of doctrines, an observance of modes,
a heat of affections, a form of words, a spirit of censoriousness.

Religion is unity and love: therefore it is not religion that
makes separation and disaffection.

A man hath his religion to little purpose, if he doth not
mend his nature and refine his spirit by it.

Sincerity of heart is a great advance towards orthodoxy
of judgment.

What has not reason in it or for it, if held out for religion,
is man's superstition: it is not religion of God's making.

Our fallibility and the shortness of our knowledge should
make us peaceable and gentle: because I may he mistaken,
I must not he dogmatical and confident, peremptory and
imperious. I will not break the certain laws of charity for
a doubtful doctrine, or for an uncertain truth.

Either be a true friend, or a mere stranger. A true friend
will delight to do good: a mere stranger will do no harm.

Fair construction and courteous behaviour are the greatest
charity.

https://archive.org/details/libercantabrigi00pott

*****
詩ではなく散文。ケンブリッジのプラトン派。

カルヴァン派的な熱狂・教条主義・排他性から
日々の道徳の指針としてのキリスト教へ。

*****
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女性は純潔で清楚でなくては

女性は純潔で清楚でなくては
--16-17世紀の評論・説教より


スティーヴン・ゴッソン『悪の学校』
Stephen Gosson, The School of Abuse (1579)

(着飾って劇場へ通う女性に対して)
雄馬は雌馬を見ればひひーんと雄叫びをあげる。それと同じで
きれいな女性を見れば男のいやらしい血が騒ぎ、邪悪な妄想の
なか淫らなため息をつく。
[W]ild coultes, when they see their kind, begine to bray,
and lusty bloods at the shewe of faire women give a
wantone sigh or a wicked wishe.
--だから着飾って外出するな、ということ。

(女性が男性に姿を見られることについて)
外に出なくても誘惑の恐れはある。窓際にいるだけで声を
かけられるかもしれない。
You neede not goe abroade to bee tempted: you shall
bee intised at your owne windowes.

(女性の化粧や華美な服装について)
輝く的は命中しやすく、きらきらした顔は人目を惹く。
で、どうなる? 瞳と瞳が見つめあい、心と心が惹かれあう
--そして欲望の炎が燃えあがる。
Blasing markes are most shot at; glistring faces
chiefly marked; and what followeth? Looking eies
have lyking hartes; lyking hartes may burne in lust.

*****
フィリップ・スタッブズ『悪の分析』
Philip Stubbes, Anatomy of Abuses (1583)

(女性の化粧について)
化粧をすることは悪への誘惑を招くということだ。
顔を彩ることにより、女は貞節を汚すことになる。
[F]rom the coullouring of faces spring the inticements
to vices, and that they which color their faces doo
purchase to them selues the blot and stain of chastitie.

(香り花束について)
夏になると……高貴な女性はほとんどみんな香り花束を
もって出歩くようになる。胸に花束を貼りつけていたりもする。
なぜ? もちろん、男をおびき寄せて自分をつかまえて
もらうためである。そうしてよだれまみれのキスを交わし、
あわよくばもっと淫らなものを仲よく交わしたりする。
[I]n the Sommer-time . . . yee shall not haue any
Gentlewoman almost . . . but they will carye in their
hands nosegayes and posies of floures to smell at;
and which is more, two or three Nosegayes sticked
in their brests before, for what cause I cannot tel,
except it be to allure their Paramours to catch at them,
wherby, I doubt not, but they get many a slabbering
kisse, and, paradeuenture, more freendship besides:
they know best what I mean.

*****
トマス・ナッシュ『イエルサレムでキリストが泣いている』
Thomas Nashe, Christs Teares over Ierusalem (1593)

(女性の華美な服装及び化粧について)
女がきれいな服を着たがるのは、男の淫らな欲望をより
いっそう掻き立てるため、そういう悪魔の誘惑を後押し
するために他ならない。男を誘惑するため、男に誘惑したい
と思わせるためでなければ、なぜあのように顔をいろいろ
彩ったりするのか? 妙な薬品をたくさん使って?
The ende of Gorgeous attyre . . . is but more fully to
enkindle fleshly concupiscence, to assist the deuill in
lustful temptations. . . . If not to tempt and be thought
worthy to be tempted, why dye they & diet they theyr
faces with so many drugges as they doe. . . ?

*****
ジョウゼフ・スウェットナム『淫らでぐうたらで出しゃばりで浮気な女』
Joseph Swetnam, The Arraignment of Lewd, Idle, Froward, and
Unconstant Women (1615)

(着飾って外出する女性たちについて)
おしゃれした女は、ほぼまちがいなく男との出会いを求めている。
出会って、仲よくなって、そしてありとあらゆる愚かな行為へ
となだれこむ。外出好きな女は、恋を楽しむとかいって
たいてい貞操を失うものだ。
[I]f she be decked up in gorgeous apparel, then a
thousand to one but she will love to walk where she may
get acquaintance. And acquaintance bringeth familiarity,
and familiarity setteth all follies abroach; and twenty to
one that if a woman love gadding but that she will pawn
her honor to please her fantasy.

*****
トマス・ビーコン「結婚前の女性がしなくてはならないこと」
Thomas Becon, “Of the Duties of Maids and Young Unmarried Women”

(女性の華美な服装について)
浮ついた服装はまさに心が浮ついている証拠です。どんな
女性であれ派手な服を着て喜んでいる者は、自分を売りに
出しているのと同じです。わたしの心と体は軽いですよ、
と宣言しているのと同じです。
The lightness of apparel is a plain demonstration of
the lightness of the mind; so that, whatsoever woman
delight in gorgeous garments, she setteth forth herself to
sale, and declareth evidently her incontinency both of
body and mind.

(既婚女性の服装について)
貞節な妻は夫の気に入る服装をしていれば十分です。
他の男たちの妄想を掻き立てる服を着て注目を集める、
というのは、娼婦のすることです。まじめな女性の
することではありません。
It is sufficient also for honest married wives, that they
be so apparelled that they please their husbands:
they that deck themselves to please the fancies of
other, and to make themselves gazing-stocks to the
world, practice rather the manners of whores, than
the conditions of honest women.

*****
すぐ下のマーロウ訳オウィディウスのような
不道徳をひけらかす作品の背景。
キリスト教性道徳 vs. 不道徳(だけど知的)な古典
という対立。

もうひとつの対立は、シドニー『アストロフィル』的な
宮廷風純愛 vs. 不純な古典。

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From "The Map of Mortalitie"

「人の生きる道」より

最初のアダムによってみな死ぬように、
わたしにおいてみな生きる。
わたしは死を呑みこんで勝利する。
そして永遠の生を与える。
[イエスの絵のキャプション]

---
土よ、傲慢なわたしたち人間もいずれおまえのようになるだろう。
死の攻撃に耐えられる者はいない。
塵は塵に帰る。おまえからつくられたわたしたちも塵に帰る。
この世の栄華はみなむなしく、いずれ無に消える。
砂に撒かれた水のように、人も消えていく。
一瞬の稲妻のように人は生き、そしていなくなる。
. . . . . . . . . . . .
死は予想外のときに訪れる。そして誰をも逃さない。
生とは、いわば死からの借金。みな返さなくてはならない。

* * *
From "The Map of Mortalitie" (1604)

As by first Adam all doe die
So in me all are made alive.
Deaths swallowed up in victory,
And I aeternall life do give.

---
Proude earth behould, as thou art we shall bee.
Against the graue, can no defence be made.
Dust will to dust, as thou are once were wee:
Worldes vain glorie doth thus to nothing fade.
Man doth consume as water spilt on sande.
Like lightnings flash, his life is seene and gone:
. . . . . . . . . . . .
Death strikes vnwares, and striking spareth none.
Life is a debt to death, all men must die. . . .

http://ebba.english.ucsb.edu/ballad/32406/image
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* * *
メメント・モリ。死を忘れるな。

* * *
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文献紹介--キリスト教信仰の変容 (Worden 2001)--

文献紹介
17世紀におけるキリスト教信仰の変容

Houston and Pincus, eds., A Nation Transformed (2001)
Ch. 1: Worden, "The Question of Secularization," 20-40.

(1)前半--問題提起--
(世俗化は社会レベルで考えるべき)
ロックやニュートンなどの知的エリート層だけでなく、
社会のレベル、一般民衆のレベルで扱うべき。21

(世俗化は多面的)
思想の世俗化、権力の世俗化(教会と国家の関係)、
行動の世俗化(礼拝のあり方、各派のあり方)、
精神構造の世俗化(世界に対する理解、この世と
あの世の関係についての考え方)など。21

(誰の見解を代表的なものとみなすか)
21

(どのような時間の枠で世俗化をとらえるか)
宗教改革から 22
王政復古期から 24-
- Ludlow, Watch Tower MSS (宗教的) --> Memoirs, ed.
Toland (非宗教的) 24-
- 内戦・共和国期の混乱に対する反省。 27
- 王政復古期の放蕩インテリ・宮廷人のシニカルで冒涜的な言動。 27
- 神学思想の変化(教義重視から日常道徳重視へ)。27-28
(これは衰退か、新しいキリスト教への変容か。 28)

(2) 後半--これまでの研究の概観--
(宗教と政治)
17世紀末や18世紀においても、宗教が政治的問題を
引きおこしている(「教皇主義者の陰謀」事件など)。29

(宗教と印刷文化)
1641年あたりから、新聞などの出版物が増え、
一般の人々の政治的意識が高まった。そして
宗教への意識が減退・・・・・・ということはなく、
聖書、説教などを含む宗教的な出版物も多く出され、
売れた。当時の人曰く、「バラッドと同じくらいに」。
29-30

(内戦・共和国期の宗教論争の影響)
- (国教会の崩壊 --> )諸派乱立 --> 相対主義へ。30
- 真理(truth)から、心からの信仰(sincerity)へ。31
- 目に見える信仰活動から、内的な信仰へ。31
- 熱狂的な信仰に対する批判。ハリファックス侯爵が
娘に曰く、「信仰で苦行をしたり、陶酔的になっている
者の真似をしてはいけない」、「楽しくない信仰は
役に立たない」。31-32
- 信仰がマナーや礼儀(politeness)の領域へ。32
- 信仰 = 社会性。 32
- 信仰 = 余暇の過ごし方のひとつ。
(コーヒーハウスに行くような感じで教会に行く、
新聞を読むように聖書を読む、など。)32

(宗教と理性 1)
理性(reason)とは--
1. 頭で論理的に考えること。
2. 魂のなかに宿る神の光、神の声、これに
したがうことが美徳と信仰につながる。
(17世紀を通じて、2が衰退、1が主流に。)33

(宗教と理性 2)
宗教 x 理性ではない。ロック(Locke)、トーランド
(Toland)らは、キリスト教を論理的に説明できる
ものとしてアピール。信仰を非理性的で根拠のない
盲信から救うため。(これは聖職者批判。それまでの
聖職者たちが、人々を非理性的な信仰に導いてきた、
ということ。)34

(宗教と科学 1)
科学的発見とは、神の創造物のすばらしさを
明らかにするためのもの。34

(宗教と科学 2)
同時に、科学はキリスト教のあり方を変容させる。
- 天動説 x 天国/地球/地獄という宇宙観。35
- 超自然、人間の世界への神の介入の否定。
神の意志(providence)の否定 35。

ハリファックスが娘に曰く、「よくあることだが、
ことあるごとに、神に正しいと認められた、
あるいは神に罰せられた、などと考えるのは
間違いだ。気をつけなさい。」35

(神がやさしい存在になる)
- この世の罪、災難、不幸と神が切り離される
ことにより、神がやさしい存在に。35-36
- 地獄や永劫の罰、などに関する考えが衰退。36
- 悪魔も衰退、魔女裁判もなくなる。36
- 原罪による人間の堕落・腐敗への言及が減る。36

(信仰と利害)
- 17世紀のはじめには、信仰 x 個人の利害。
- 17世紀おわりには、信仰 = 個人の利害 =幸せ。37

(信仰と商業)
信仰の自由が商業の発展をもたらす。37

(神学教義の衰退)
- カルヴァン派(予定説)とアルミニウス派(自由意志)
の対立が鎮静化。アルミニウス派の勝ち。
- ある若者、「宗教論争は時代遅れ」。
- オーウェン(かつてのクロムウェルの右腕)、
「落ち着いたプロテスタントは、だいたいみな
同じような信仰をもっている」。
- 信仰は思想ではなく実践。
- 正しい教義ではなく、よいおこないが救済への道。38-39

(信仰について無関心ではない)
信仰は道徳のようなものとして、やはり重要視
されつづける。ロック、「美徳と信仰が区別され、
信仰だけが重要視されてきたのは、聖職者のせいだ」。39

(全体として)
重要なのは信仰ではなく日々のふるまい、という
方向へ変化。40

* * *
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(大学院生以上の方は、Wordenの議論を直接参照
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