晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

藤井聡 『凡庸という悪魔』

2015-07-09 20:56:09 | Weblog

 安保法制をめぐる世論とマスコミの論調は変わってきているようだが、僕は二つの道を想定している。一つは、安保法制が今国会で可決された場合は、憲法改定が遠のく。現行憲法の範囲内で解釈可能という政治的な次元での結論を得られたのだから、当面は憲法を改定をする必要がないという考え方である。

 もう一つは、安保法制が、否決ないしは議決の先延ばしになった場合は、憲法改定が日程に登ってきると考える。憲法学者が発している違憲表明の根拠は、その思想(反戦)では無く、憲法の条文との整合性が主であるから、憲法が変われば合憲と言わざるを得なくなる。アへ首相は、憲法改定を争点に衆議院の解散まで打ってくるのではないか。彼はそこまで政治的な執念を見せると思う。その場合、今の民主党をはじめ野党は、候補の準備、憲法改定への考え方の整理など対応不足は否めないであろう。

 

 『凡庸という悪魔』(藤井聡著 晶文社 2015年刊)

 厳しい結論から言うと、こんな本を読んだらダメだ。著者は、自分はインテリで気付いている人、大衆はバカで何にも考えていない、そこに今の危機がある、このような図式を立てること自体、その心根が間違っていると考える。僕も時々陥ることのある気分は、僕はこんなに本を読んでいるんだ、こんなに色んなことを考えているんだ、ただ集って、酒を飲んで、何にも考えていない奴等とは僕は違うと!

 これは、大きな間違いである。僕は名もなき大衆の一粒の砂であり、まだまだ何にもわかっちゃいないんだ。日々、ああなるほどこういうことだったのか、本なんて読むことは読まないよりも少しはマシな程度くらいの話なのだ。ここを常に自戒していないと、実社会では思わぬところで足をすくわれる。

 こう書けば、大体この本のスタンスが見えてくると思う。著者は、ハンナ・アーレントが、『全体主義の起源』(1951)で行ったナチスドイツの全体主義を分析した結果を、現代日本に当てはめ、警鐘を鳴らす、そんな構図である。学校におけるいじめも、政治における改革も、新自由主義の経済理論も、全て大衆が思考停止の中で進む全体主義というかなり粗雑な理論構成である。

 僕は、大衆を蔑視している著者の姿勢そのものの中に、著者が批判を展開している全体主義が潜んでいると感じた。著者には、啓蒙、啓発という作業は、己の身の置き所を間違えると、他者への刃が、自らに向かってしまうことを自戒してほしい。繰り返すが、僕自身の自戒を込めて。

 本書を購入したきっかっけは、北海道新聞(2週間くらい前の夕刊)の文化欄で内田樹、佐藤優、森本あんり氏らの「反知性主義」の本が売れているという紹介があり、その中に著者である藤井聡氏が取り上げられていたためである。書店でも、平積みにされていて、かなり売れているようであった。道新の意図もよくわからない。

 *(追記)道新は、7月2日夕刊で、ー「反知性主義」広がり懸念ーという記事でした。(2015.7.12)

 

 

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