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死生観論 吉本隆明ノオト その8

2015-07-01 19:46:39 | Weblog

 「マスコミをこらしめるには広告料収入がなくなることが一番だ」発言は論外だが、最近気になる新聞広告に「深見東州」(半田晴久)によるゴルフトーナメントやエンターテイメントの案内が毎週のように載っている。深見氏はどういう人なのかな。道新をはじめ報道機関は、「言論のためにはどんな広告料収入でもかまわない」と自ら言っていることにならないのか。プンプンと胡散臭さが臭うのである。

 

 死生観論 吉本隆明ノオト その8

 吉本の言説は、断定的な表現で人を引きつける魅力があるが、緻密な論理の積み重ねと言うより詩的な発想をベースとしているため、ほころびも目立つ。やはり吉本は詩人であり、文芸評論を生業としている人だ。

 日本人の死生観の変化を歴史的に粗描すると、

 ①未開・原始時代、すなわち宗教が入ってきていない時代における死後の観念は、死んだあと人間の魂はあまり遠くへ行かない、魂が肉体から離れてあまり遠くないところに漂っていて、くり返しくり返しまた帰ってくる。死んだときに魂がいる世界と、自分のいる世界との間には、そんなに断絶、分け隔てがなく、いつでも呼ぼうとすればやってくるし、自分の方からも行くことができる、と考えていた。

 あの世のイメージは、

  村里のそばの山―山の頂に霊がいる

  海のかなたー空飛ぶ鳥(稲作を持って渡って来た人たち)

  地下―アイヌ、洞窟

 ②鎌倉時代に仏教の伝来で死の観念は変わった。仏教は輪廻転生、生まれ変わりとか、魂が動くという信仰を一面では継承しながら、生まれ変わって現世にやってきたときに、貧困な生活をもう一度やらなければならないということが、ある時代から人々の心を苦しめるようになった。こういう苦しい世の中からどうしたら逃れることができるのか。あるやり方をすれば輪廻を断ち切ることができる。死んだあと浄土という楽しいところに行ったらもう帰ってこなくていい。行ったきりでいいという考え方である。十万億土のかなたにあの世がある、という考え方である。

 浄土教以前は、修業を積んである種の精神状態をつくりあげるとあの世に行き帰ってくることができる。(密教の曼荼羅は、その修行の果てにあるイメージ)

 しかし、その後の浄土教で、親鸞は正定聚(しょうじょうじゅ)になれる、いつでも浄土に行けるという言い方でどこかに霊魂が集まる世界(あの世)があるということを信じていなかったのではないか。

 ③明治時代になってキリスト教の影響があった。天国があると信じる人、ないと考えている人、様々な考え方が日本人の死生観に加わった。

 ④そして、現代は、日本人の死生観を類型化できなくなった。ただ、今の老人たちは、国や子どもに頼るのではなく、死を自分自身で解決すべき問題と考えている。老人が増え、死は最後の問題、究極の問題になったと言える。

 *(*印は僕の感想部分)歴史を振り返ると、現代は価値観の多様化に伴い死生観を定めることが困難な時代であると考える。死をどのようにとらえたらいいのか。例えば、恐怖すべきものなのか、楽土への旅立ちなのか、唯物論的には単なる物質の消滅である、などと各自各様の考え方がある。

 ただ、戦争を現実化しようとする政治の動きがある今、職業軍人(自衛官)にとって、一定の死生観を定め教え込むことが必要になっているのではないか。

 戦前社会は、国家による強制力をもって、「お国のために」死ぬということを見事に意識化し、進むも地獄、戻るも地獄という極限状況を作り出した。もし、僕が今より30歳ほど若く、30歳前後の年齢だったとしたら、そしてこの国が戦争を始め、戦場に行かなければならなくなったと仮定したら、さて兵役拒否をして家族も含めて弾圧を受ける、戦場で自分や敵の死に直面する、そんな情況にまで行ってしまったら、後戻りできなくなるであろう。そうならないよう、そして常に名誉ある退路を社会的にキープしておくことが肝要ではないかと考える。

 *自分にとってはたった一つの自分の命、それを何と引き換えることができるのであろうか。自分のため、家族のため、友人のため、国家のため、それが仕事だから命を捧げることができるのだろうか。僕は、国家という擬制がそれほどの価値を持ち合わせているとは思わないが、ある種の環境に置かれた場合や、自分の中で納得した場合は、簡単に命を差し出すことができる、それは「先の大戦」が証明していると思う。

 それまでの人間関係、自分が同僚や後輩に対して吐いた言葉が自らを縛る、仕事への指示、仕事への心構えと言って、随分偉そうなことを言ってきた自分。俺について来い、でも俺は行かない、とは今更言えないであろう。

 今は、後戻りできない情況をつくられることと、つくらせないことのせめぎ合いである。

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