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今回の目的のひとつは、比叡山に登ることであった。JR湖西線で京都から比叡山坂本駅まで15分程、下車後ケーブルカーの駅まで坂本の街の真ん中を通っている坂を25分くらい登り、ケーブル坂本駅に着く。そこからは、乗ってみたかったケーブルカーで山頂のケーブル延暦寺まで約10分少々であった。復路は、京都市内までバスで急カーブの続く比叡山ドライブウェイを降りた。
比叡山の山頂は東塔、西塔、横川などいくつかのエリアに分かれており、延暦寺はいくつもの施設から成っている。見学はそれらをバスで巡るのであった。
比叡山は僧侶のデパートと言ってもいいであろう。鎌倉時代、法然、栄西、親鸞、道元、日蓮など、その後それぞれの宗派を起こす僧侶たちがここで修行を行なっている。親鸞などはこの山の中を一日30kmも走る修行を積んだということである。なぜにこのような嶮しい山の上で厳しい修行をしたのであろうかという疑問が生じる。あえて俗世界から離れ、肉体をいじめ抜き、精神を研ぎ澄ますことで何かが掴める、悟りの境地に達することができると言うことか。しかしながら後の親鸞は、大衆には修行ができる時間や経済的な余裕が無いことから、修行の無意味さのようなことを語っている。
私は、仏教と新左翼における共通性を感じた。否、新左翼の思想が宗教的教義化しているといってもいいのだろう。比叡山で修行を積んだ僧侶たちは、それぞれの教義を編み出し、●●宗を開祖し、その弟子が○○宗××派・・と分派していった。この国の新左翼も日共を親とすれば、共産同、革共同がその子供であり、それが△△派、★★派と分派している。
自然科学の場合、仮説を立ててそれを実験などで実証できるとそれが真理になる。反証が出れば真理を修正していけば良いという比較的シンプルな原理で出来上がっている。しかし、社会科学や人文科学、とりわけ思想や宗教は、真理の実証が非常に難しいゆえ、百花繚乱、諸説入り乱れた情況を呈するのであろう。もっといえば、自説の真理を証明するために、権力的(ゲバ)抗争に明け暮れるような事態に陥るのである。
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