晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『マルクスの逆襲』 再読

2012-04-10 20:25:03 | Weblog

 55日の豊平川ハーフマラソンを目標に練習をしているのだが、冬場に全く走り込めなかった影響もあり、未だに10km程度しか走ることができない。日没が遅くなってきているので、数kmなら平日の夕方も練習ができるようになった。今夕の練習は、日曜日より少し走力が伸びているような感じがした。身体と対話しながら体力が上向いていく実感を得ることができれば、それは喜び。

 

 

 『マルクスの逆襲』(三田誠広著 集英社新書 2009年刊) 

 たまにあることなのだが、読んでいるうちに何となくひょっとして前に読んだかも知れないと思っていたら、2009年8月に読んでいて、2009.8.15の当ブログに感想を記していた。それから3年ほどが経過しているが、再読して、本書の中で引っかかりを持つ部分、感じる部分が以前と異なっていることから、おそらく自分の考え方にも変化があったのだろうと思う。

 3年前の私は、「ソ連も中国も、レーニンも、トロッキーも、ポルポトも、学生運動の諸セクトも、全共闘も・・全部まとめてマルクス主義者という大雑把な括り方にはあきれるばかり。」と私も三田氏の思想を括り、もう少し丁寧で厳密な議論をするべきだと主張した。

 今回読んで立てた問題は、ある思想や宗教を理解や共鳴しながら物事を考えることと、ある思想や宗教を(無条件に)信じることの間に差異はあるのか、というものである。三田氏が何もかもをひと括りにして批判した理由は、マルクスの思想が、それぞれの運動の中で、あたかも宗教のように信じる、信じないの次元になっていて、自分の頭の中では何も考えていないのではないか、と捉えているからであろう。

 ある党派における党員とは、党の綱領に賛同し、綱領に従って活動する者であるが、党外からは見えなくても、そこには個人の考えの違いや論争があるはずである、否、無くてはならないと考える。もし、論争も何も無い真の一枚岩であれば、それは信仰の領域のことである。

 三田氏の議論の荒さは、思想と信仰、政党と宗教を同一次元で論じているところにある。

 残念なのは、本書の中で三田氏が、マルクスの思想そのもの、疎外論も物象化論などについて何も語っていないところである。マルクスの思想に基づくとひと括りにした運動が対象となっているだけで、マルクスの思想については論じられていないのである。

 

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