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『国家とはなにか』 その2

2011-07-02 21:00:31 | Weblog

 先週は火曜日から金曜日まで4日連続の飲み会(営業)、そのうち「つぼ八」が3回ともうかなりな食傷気味、明日(日曜)も営業、月曜日も「つぼ八」で飲み会(営業)・・・身体も消耗するが、気持ちの消耗の方が疲れがたまる。

 

 久しぶりの休業日の本日は散髪とイノダ。

 

 

 

 

 『国家とはなにか』 その2 

 

第三章 富の我有化と暴力

国家とは、富を我有化(専有)するために、そして我有化した富を使って、暴力を組織化する運動体にほかならない。

 

なぜ国家は住民から税を徴収するのか。

租税とは、国家によって強制されるものではなく、住民が自らのために負担するものである、という考え方は誤りである。実際には、税の徴収が成り立つためには、税を徴収する側にすでに暴力の優位性がなくてはならない。

 

なぜ人々は、自然状態(ホッブズ社会契約論でいう各自の各自に対する戦争)にあるにもかかわらず、特定の人格へと自らの力を委譲することを互いに申し合わせ信約する事ができるのか。(設立による国家)

否、国家が成立するのは、住民の間の合意によってではなく、暴力的に優位にあるエージェントが住民たちを弾圧することによってである。(獲得による国家)

 

所有権は「国家以外のエージェントが住民の富を奪うことはできない」という形で設定される。

 

所有が成立し暴力の実践が支配関係へと構造化されていくプロセスは、社会の中で暴力が実際に行使される可能性が小さくなっていく過程をあらわしており、その過程を通じて治安(セキュリティ)が確立されていく。

 

国家の形態はどのように規定されるのか。

国家の形態に対して規定的に作用する二つのファクターとして、徴収される富が生産される仕方と、物理的暴力の行使を支えるテクノロジーがある。

 

国家のない社会というものをどのように考えるべきか。

国家のない社会とは、暴力の持続的な組織化をはばむような暴力のあり方が優勢になっているような社会である。

 

第四章        方法的考察

 国民国家は、通常信じられているのとは逆に、歴史的にはかなり新しい「発明品」であり、国民共同体が歴史を通じてつねに存在してきたというのはフィクションにすぎない。

 国家を民営化したとしても、国家の基礎をなす暴力の実践は私的な形で残るのである。それは、より私的な国家の形態をもたらすにすぎない。国家の民営化は決して国家の消滅を準備しない。

 

 

 *萱野国家論の骨格が見えてきたが、「暴力」と「権力」の使い方を議論の前提としてしっかり定義しないと、「暴力」という言葉だけがエキセントリックな響きを持って独り歩きしているように感じる。

 萱野氏は、一見ラディカルな主張をしているようだが、国家存在の根拠の方に比重を置いているため、現代国家の変質や限界、国民国家の次の国家像、あるいは国家無き社会像の提示の前で行き詰っているように感じる。

コメント
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