晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『おせっかい教育論』 その2

2011-07-11 19:45:08 | Weblog

 週末、紀伊国屋書店、イノダコーヒーが習慣化しています。夏季限定メニューのコーヒーゼリーを注文しました。

 

 

 『おせっかい教育論』(鷲田清一、内田樹、釈徹宗、平松邦夫著 140B 2010年刊)その2

 

教育というテーマは私たちの生活に身近で、誰しも何らかの考え方を持っていて語りやすいテーマである。しかし、いくら語っても中々答えの出ないテーマでもある。4人の対談から印象に残ったフレーズを記述するが、おおよそこの対談の雰囲気がわかると思う。

 

 教育というのは共同体が生きていくうえで必須のもの。学校教育が歪んでしまったのは、教育を受ける個人がそこから受益するためのものだという勘違いが広まってしまったからだという「消費者の言い分」の蔓延のため。(内田)

 

 「イノベーターになるかもしれない子供たち」にフリーハンドを保証するのは学校の重要な人類学的機能なのです。学校では、子供たちの中に潜在するある種の非社会的・反社会的な部分についても、できるだけ広く受け入れ、そして面白がる余裕が欲しいと思う。「一般ルールが停止する場所」は共同体の安全保障のために絶対に必要なのです。(内田)

 

 言語能力の低い子は身体表現でコミュニケーションする能力を育てたい。「教える」ではなくて「伝える」でいい。(平松)

 

 別々の価値観の場がないと人間は生きていくのがしんど過ぎる。(釈)

 

 僕が自分で道場をやりたいというのは、家庭と学校教育のほかに、地域社会に、小さい子が自分の足でも通える所に、武道の道場があった方がいいと思うから。学校では、文科省は一貫して教員たちの規格化・標準化を推し進めてきた。(内田)

 

 この世には、「絶対なくしてはならないもの、見失ってはいけないもの、あってもいいけれど無くてもいいもの、端的に無くていいもの、絶対あってはならないこと」、があり、それをきちんと区別できる「遠近法」を持っているのが、「教養」というものだ。答えがないままにどう生きるか、どう行動するかという「勘」が働くような人を育てないといけない。(鷲田)

 

 人間の中には「教えたい」というとどまるところを知らぬ欲望があるのではないか。(内田)

 

 様々な出会いの中で、「もっと見晴らしのよい場所に出る」ということが「まなび」の意味だと思う。職住一致というポリシーでまちを再構築することを考えなければならない。「学校」という場所を、様々な「おとな」が地域の施設としてあたりまえのように使うというふうにもっと風通しのよいものにするべき。(鷲田)

 

 社会適応できない先生を見るのは、子供にとって救い。「拙速」は教育においては最大の忌避である。(内田)


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『おせっかい教育論』 その1 | トップ | 『大鹿村騒動記』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事