晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『国家とはなにか』 その4

2011-07-09 21:18:32 | Weblog

 少し古い新聞を整理していたらこんな全面広告がありました。(2011.5.21日本経済新聞)国民国家の枠組みが存在するからこその広告です。

 

 

その4

 

 第六章 国民国家の形成とナショナリズム

 

 国民国家は、現在の国家の基本的あり方をなしている。しかし、国民国家は特殊な国家形態であり、特定の歴史的状況のもとで形成された。

国民国家の成立の要因として、国家が国境によって領土化されることが基本的な前提をなす。

 

重要となるのは、国民国家とナショナリズムを区別することである。ナショナリズムとは、暴力の集団的な実践(政治的な単位)を民族的な原理(言語、宗教、人種など)に基づかせようとする政治的主張である。

 

国民国家が形成されてきたプロセスとは、国家の暴力が住民のもとへと「民主化」されてきた過程にほかならない。「暴力の民主化」は皆兵制によって具現化される。次に、「内面的な」インフラとなったのが、国語の制定や公教育の実施であり、それにより、文化的共同体としての国民の原型ができあがる。

 

さらに、国家機構の役職が住民に開放され、普通選挙制が制定される。国民国家は、形式的にせよ平等主義を実現してきた。しかし、それはマイノリティの排除と表裏一体である。

 

「暴力の民主化」により、国家と住民の間から軍事的対立の図式が消える。国家の暴力装置は、軍隊と警察に分化する。

 

住民に国家の主権のために戦うことを受け入れさせるためには、動機付けが必要である。道徳レベルでは、国家に従うことが究極的な善となるためには、宗教的なものを再導入しなくてはならない。それは、「民族」という表象である。経済的レベルでは、生存共同体を守るということであり、家族国家観が提示される。

 

国民国家の形成において、①規律・訓練(権力テクノロジー)が果たした役割は、住民全体を兵力―労働力として徴用しながら、あらたな服従関係へと組み込んだ。暴動・反抗・無秩序などを生じさせない。さらに、規律権力は、主権国家内部の権力関係を脱人格化する。

 

もうひとつ、②国家は住民たちの生が営まれる領域を管理し、調整するような統治実践が関わっている。(フーコーは、「人口の生―政治学」、またふたつをまとめて「生―権力」とよんだ。)

 

19世紀後半以降、生―権力が、血をつうじて行使される主権的権力によって活性化され、支えられる事態をつうじて「近代的な、国家的な、生物学的な形態における人種主義(レイシズム)」が形成された。住民の生を「より健康的でより純粋にする」ためには、それを「退化・変質」させる「異常」で「劣った」人間を排除しなくてはならなくなる。

 

レイシズムは、ナショナル・アイデンティティ(国民的同一性)の構成において本質的な役割をはたしている。国民国家とは、「誕生/血統」を国家のメンバーとなるための資格とするような国家形態である。すなわち、国民国家はレイシズムと暗黙の関係を結んでいる。(戸籍制度において体現)

 

 

*ここまで来て、「国民国家の黄昏」を証明したいという私の意図に反して、私たちが今生きているこの国民国家という形態は中々強固な基盤を持つ手強い存在であることが逆証明されてきている。

 しかし、現実社会の動きからは、特にこの国の最近からは、国家の機能不全状態が誰の眼にも明らかである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする