晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

なぜ人は読書するのか

2006-05-08 20:53:02 | Weblog
 『悠吾よ、明日のふるさと人へ』(小宮山量平著 こぶし書房刊)
 90歳の著者が、ひ孫の悠吾へ送るメッセージ、この時代の、この国の
「絶望」を、言葉を探して紡いで、的確に表現している。それは、ひ孫
への「希望」の言葉。
 戦後の出版界をリードしたといわれている編集者小宮山氏がひ孫に
残した全編詩のような言葉。元気を無くした時には、再読しよう、
そうすれば力も湧いてくる。

 『社会学入門』(見田宗介著 岩波新書)
 思うに社会学という学問は、体系の無い社会の素描なのか。
 ひとつひとつの社会に対する切り口、分析はするどいものが
感じられるが、政治学も同様、切り口を変えれば、この社会を
いく様にも捉え描き分析できる。論点が見えない。
 私には、経済学のような大きな体系が無いので、全体を掴んだ
という実感がない。

 で、人はなぜ、読むって。
 知識を得るために、心を落ち着かせるために・・・
 それは、「全世界を獲得するために」さ。



 

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3 コメント

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Philosophy No.2 (生住滅)
2006-05-10 19:23:55
感性の質ではないでしょうか。

うろ覚えですが、デリダが狩猟民族は分裂気質、農耕民族は躁鬱気質。(暇なときに原典で確認します。)

このフレーズでピンと来る人、来ない人の差異はどこにあるのでしょう。



を前説に、晴走雨読氏の考える「読書」に一言書き込みます。



読書は、感性の質ではないでしょうか。

感性にベクトルを持っている人には、必要の無い営為だと考えます。語彙は確かに読書家に比べ少ないですが、そのことには、ほとんど意味は無いと思います。

あの突き抜けた生き様に、言葉も思索等も吹き飛ぶと考えます。ブンドの汗のように・・・



感性がスカラーの人は、有意義な一時のため、思索、知識、果ては○○を獲得するためにとか言われますが、なんと貧しき哉。言葉の迷路は迷路でしかありません、感性がスカラーの人にとっては。



さて、生住滅にとって「読書」とは、「生活」だと考えます、「晴耕雨読」の雨読は、思索、知識、暇つぶしなどではなく、「生活」そのものだと考えます。



ここで問題なのは「生活」とは「何か」ですが、早朝の愛犬の散歩時に、あのカーコとクロスケが甲高い幼児の声質でややしばらく喋って(?)おり、愛犬も唖然と見入って(聞き入って)いました。



感覚ではありません、感性の質ではないでしょうか。







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雲雀 (生住滅)
2006-05-12 06:28:48
蝦夷紫つつじが満開。

水芭蕉が満開。

手植えの庭の花が満開。

蝦夷のギシギシが葉を誇示しだしています。

誰がこんな名を付けたのでしょうね。



朝の陽に湿った冷たい大気が絡み、心が空っぽになる愛犬との散歩でした。



そうそう、雲雀が空中浮揚していました。
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訂正 (生住滅)
2006-05-12 19:39:28
デリダってダレダ!

親父ギャグはこれぐらいにして、ジャック・デリダの書籍が見つかりません、ポスト構造主義の旗手と言われたデリダのことなのか。

生住滅の何時もの購入して積読の一冊なのか・・・



○十数年から分裂、躁鬱に興味があって、フロイトの弟子E.Hエリクソン「自我同一性」誠信書房とか中井久夫「分裂病と人類」UP選書とか読み散らかしており、記憶かグチャグチャになっており、デリダから中井久夫に訂正させていただきます。



晴走雨読氏からの突っ込みの前に訂正できてヤレヤレ。

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