晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

田村敏紀 『札幌の塾長50人』 どのような教育が「よい」教育か

2015-12-11 20:03:01 | Weblog

 教師は子どもたちに夢や目標を持ちそれに向かって努力をしなさいと教えているが、教師の意図を感じる子どもたちは、心の底からそう思っているかは別として、ケーキ屋さん、プロサッカー選手、弁護士などになりたいと優等生的に答えるだろう。もし、好きな事だけをやって遊んで暮らしたい、他人と競い合うことは嫌いだから片隅で静かにしていたい、というような「夢」が返ってきたら教師たちはどうするのだろうか。

 

 田村敏紀 『札幌の塾長50人』

 『札幌の塾長50人』(田村敏紀著 共同文化社 2015年刊)は、おそらく中学生の半数以上が通っているだろう塾について、これまであまり表に出ていなかった業界の方々の本音が語られていて、僕は北海道の教育界に一石を投じる大変インパクトのある本だと思う。しかし、公立学校が主体の道内(特に小中学校)では、これを真摯に受け止め、議論する素地が無い。僕は、そもそもそこに根本的な問題があると思う。

 著者は、本州での私学教師の経験から、本州と北海道の教育について温度差があることを指摘する。そして、道内においては、もっと私学が力をつけるべきであり、そのためには塾と私学が民間同士として手を携えるべきという。

 塾により指導方法は多様である。今は、授業形式が一斉授業と個別指導に分かれ、目的も、当面の成績を上げるためか、基礎的な学力を付けるためかで分かれており、子どもの質や求めに応じて様々な手法を取り入れている。

 しかしながら、肝心なのは、どうしたら子どものヤル気に火を付けることができるのかにあると塾長たちは言う。ヤル気が出れば、特に教えなくても勉強のできる環境を整えてやるだけで自分の力でどんどん勉強を進めることができ、成績も自然に伸びていくと塾長たちは口を揃えて言う。ただ、それぞれの塾長たちが持つヤル気に火を付ける方法については、企業秘密のようで具体的には語ってくれてはいない。

 塾には、親御さんからお金をいただいて子どもを預かっているため、もらうコストに見合う仕事をしないとお客さんが離れてしまうという危機感が常にある。塾はその土地から移動することが無いので、長い場合は小学生から高校生までのつきあいになり、逃げることができない。一方、公立学校は数年で異動があり子どもも教師もお互い通過集団として一時期の接点しか持てない。また、成績を上げたことに対する報奨などインセンティブが働かない。

 本書に登場する塾長の何人かが、札幌英進学院で中村亨院長の薫陶を受けたと述べているが、僕も1979年の1年間であったが中村院長の教えを受けた一人である。中村氏は道内私塾の草分け的な存在であり、伝説の人なのではないかと思う。

 思えば、あの頃の中学生たちはもう50歳だ。

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『起終点駅 ターミナル』 釧路 | トップ | 和田由美 『ほっかいどう映... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事