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戦後左翼史 その4 1959年 『現代の理論』 トロツキズム

2016-01-10 17:08:13 | Weblog

 一昨日の夜だったか、BSフジに志位委員長が出ていて、司会者の質問にしどろもどろ(僕にはそう映った。)に答えていた。一例では、「国会開会式への出席がなぜ衆議院議員6名で全員(21名)でなかったのか」と問われると、「最初だからこれ位で」、との答え。そういういい加減なことを言うから臆測を呼ぶのだ。僕などは、幹部の考え方に差があり不満分子は欠席、志位はヘタをすると失脚するかも知れないなどと想像をたくましくしてしまう。

 

 戦後左翼史 その4 1959年 『現代の理論』 トロツキズム

 1959.9.26アカハタ 主張「マルクス・レーニン主義の破りがたい原則―雑誌『現代の理論』をめぐって」

 *(*印は僕の考え)宮本による異論排除、党支配が着々と進む。構造改革派が雑誌『現代の理論』を4月に創刊、党員の論文も掲載され活発な理論活動が行われていたが党中央の批判により5号をもって9月に廃刊に追い込まれる。

 ここで、党中央(宮本)は奇妙な論理を展開する。党員は、党外の出版物などにおいて、意見を公表してはいけない。意見の表明は党内に限る。しかし、その党内のルールはといえば、「マルクス・レーニン主義理論の発展は、今日では党の中央委員会と別個に行えるものではない」(9.26主張)というものである。要するに、これは、党中央の言う通りにして下部党員は黙っていろ!さらに嫌なら党から出ていけ!ということである。こののち、構造改革論争においては多くの人材が党を離れて(除名)いく。

 1959.9.26アカハタ 「マルクス・レーニン主義の中国における勝利 中華人民共和国成立10周年を祝い、『平和と社会主義の諸問題』誌にために執筆」)(1959.9.14)劉少奇国家主席論文を転載

 (参考)劉少奇:大躍進政策が失敗に終わると、1959年に毛沢東に代わって国家主席に就任する。党内序列も毛が1位、劉が2位。しかし、その後文化大革命の中で失脚する。

 1959.10.7アカハタ 「戦後日本の二つの道のたたかいー日本の無条件降伏14周年にあたって」庄濤『国際問題研究』(中国)誌第5号から転載

 1959.11.23アカハタ 日本共産党東京都委員会常任委員会「マルクス・レーニン主義の純潔を守れ トロツキズムを粉砕せよ 港地区委員会山崎衛(まもる)同志批判」

*党中央に従っている都委員会の中にあって、党中央批判を行った港地区委員会の山崎、田川は1959.12.16に除名され、翌60.4に共産主義者同盟(ブント)に合流した。

(参考)山崎衛(1960.8.31共産同政治局員山崎衛・田川和夫ら論文「主観主義と小ブル急進主義の克服のために」を発表)

*日共は1960年安保闘争前後に方針をめぐり党に反対を唱える党員をトロツキストとして断罪、除名する。ここでも人材の流出が続く。

1959.12.17アカハタ 日本共産党中央委員会農民部、婦人部、市民対策部各拡大会議討論結果の概括

1959.12.19アカハタ 主張「トロツキストの思想と挑発から学生運動を守ろう」

*全学連(ブントが主導)が、60年安保闘争において国会突入など戦端を切り開く闘いを繰り広げていることに対して、日共はお得意のフレーズで「敵の挑発に乗るな!」を連発するのである。この党は、人民(国民)のために自己(党)を犠牲にして闘うことを第一とせず、闘いよりも党組織の温存を常に第一としている。この後、様々な闘いが緊迫していく場面で、常に「敵の挑発に乗るな!」と言って敵前逃亡を常としていく。いくら正論を唱えても信頼できる組織ではないとの評価が定着していく。

時代は、激動の1960年代に突入する。


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