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松村圭一郎 『小さき者たちの』 水俣 文化人類学

2023-06-13 13:51:20 | Weblog

6月11日18時55分、北海道では久しぶりに緊急地震速報が流れた。「苫小牧沖で地震 北海道 東北で強い揺れに警戒してください」。その後の気象庁からの発表では、「震源地は浦河沖で震源の深さは136km、地震の規模を示すマグニチュードは6.2」と。僕の科学的な浦付けのない直感では、苫小牧沖を避けたかったのではないかと。苫小牧沖ではCCS(二酸化炭素の封じ込め)を実施している。

 

『小さき者たちの』(松村圭一郎著 ミシマ社 2023年刊) 水俣 文化人類学  

著者は、エチオピアを研究のフィールドとする文化人類学者である。僕は、人類学に対して功罪両方のイメージを持っている。「文化人類学の実践も、一歩間違えば、植民地主義的で暴力的な征服と支配の実践なってしまう。」(『「人新生」時代の文化人類学』(大村敬一ほか著 放送大学教育振興会 2020年刊 27ページ)人類学が列強による植民地政策の先棒を担いだという事実がある。この国でも先住民族であるアイヌの墓を掘り返し、骨格の特徴などを研究している。

一方、国家なき社会のイメージを追い求めている僕は人類学の成果に期待を持っている。人類の初源を探求していくことによって、現在を乗り越えるオルタナティブな人びとの在り方、将来社会の構想に繋がるのではないかと思っている。人類学の研究によって「国家なき社会」が見えてくる。

書名の「小さき者」という言葉使いに違和感を抱いた。人々に対する著者の尊大な視線も感じた。僕は、故郷の釧路にかつて暮らした人びと、また今も暮らしている自分と同じ名もなき人びとを指して「小さき者」とは呼ばない。著者のどこか上から目線を感じた。著者によるエチオピア研究の成果は読んでいないが、どのような視点からなのか少し危惧を抱く。市井の人々は小さくも大きくも無い。置かれた環境の中で懸命に生きているのだ。

著者は自身が生まれ育った熊本の過去、現在の人々の生活を知るため、関係文献を読んだという。水俣病患者と関わった石牟礼道子、原田正純、土本典昭、川本輝夫らの著作、天草については森崎和江らの著作である。その結果、著者は本書の『おわりに』で「私は日本のことを、自分たちのことを何も知らなかった。」(P201)と述べる。

フィールドワークが文化人類学の基本的手法なのに、著者が熊本に実際に足を運んで歩き回った形跡はない。ただ、文献を読みその要約と少しの感想を記しているだけだ。そこに、社会のあり方についての展望や問題提起は伺えない。ただ、立ち尽くしているだけだ。もう少し、著者自身の内部で咀嚼してから考え方を表明するべきだったと思う。書籍化は少し早すぎたと思う。

 

 


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