今週は、夜の営業や町内会の会合が続きました。町内会組織のどうしようもなさはいずれ分析したいと思います。民生委員・児童委員や青少年健全育成委員など世の中の「いわゆる良い人たち」も切りたいと思っています。
『絶対に「自分の非」を認めない人たち』(斎藤茂太著 祥伝社 2001年刊)
図書館でたまたま見つけました。
「そんなこと、聞いていません」と言い訳、「私のせいじゃない」と責任転嫁、「この場合は仕方がなかった」と開き直り…。あなたの身近にいませんか? 「すみません」が言えない人との付き合いかたを教えます。というコピーに魅かれました。
斎藤茂太氏は精神科医で歌人斎藤茂吉の長男、氏の文章から、「自分の非」を認めない人の特徴としては、
ふんぞり返って、威張っている人、「人は皆同じである」という平等思想が欠落している人、「肩書き」にすがりながら「自分は偉い」と思い込んでいる人、自分を飾りたい人、心の要求水準が高い人、自惚れが強く、自慢話が好き。
いつも周囲から、自分の存在を認めてもらっていないと我慢できない人、その気になりやすく、他人を妬みやすい、相手の話をあまり熱心に聞かない、相手と一緒に考えてあげようという姿勢に欠けている人などです。
自己顕示欲が強い人とまとめることができます。
私が、心配なのは、過保護に育ち、罰を受けることも無く、甘やかされ、自立心が希薄で、依存型、劣等感が強く、そのため自己防衛として、裏返しの表現をする人です。彼らは、「すみません」と言えません。
「自分の非」を認めない人へに対する氏の対処法は、
相手に対する要求水準を下げる、おだてる、かわいそうな人と思うなどしかなく、少々頼りないものです。
私たちは、自信と不安の間をさまよいながら生きていると思いますが、一般的には他人から見た自分に対する評価より、自己評価は3割増し位高いものです。そうでなくては生きてゆけませんから。
この本を読んで、そうそういるいるこんな人と他人事のように思うか、一部自分の中にもこういう所があるなと思うか、その辺りが、「すみません」と言える人か、否かの分かれ道なのでしょう。
しかし、私には、どうもこの手の人が増えているという実感があり、また、手を焼いている現状があります。
『絶対に「自分の非」を認めない人たち』(斎藤茂太著 祥伝社 2001年刊)
図書館でたまたま見つけました。
「そんなこと、聞いていません」と言い訳、「私のせいじゃない」と責任転嫁、「この場合は仕方がなかった」と開き直り…。あなたの身近にいませんか? 「すみません」が言えない人との付き合いかたを教えます。というコピーに魅かれました。
斎藤茂太氏は精神科医で歌人斎藤茂吉の長男、氏の文章から、「自分の非」を認めない人の特徴としては、
ふんぞり返って、威張っている人、「人は皆同じである」という平等思想が欠落している人、「肩書き」にすがりながら「自分は偉い」と思い込んでいる人、自分を飾りたい人、心の要求水準が高い人、自惚れが強く、自慢話が好き。
いつも周囲から、自分の存在を認めてもらっていないと我慢できない人、その気になりやすく、他人を妬みやすい、相手の話をあまり熱心に聞かない、相手と一緒に考えてあげようという姿勢に欠けている人などです。
自己顕示欲が強い人とまとめることができます。
私が、心配なのは、過保護に育ち、罰を受けることも無く、甘やかされ、自立心が希薄で、依存型、劣等感が強く、そのため自己防衛として、裏返しの表現をする人です。彼らは、「すみません」と言えません。
「自分の非」を認めない人へに対する氏の対処法は、
相手に対する要求水準を下げる、おだてる、かわいそうな人と思うなどしかなく、少々頼りないものです。
私たちは、自信と不安の間をさまよいながら生きていると思いますが、一般的には他人から見た自分に対する評価より、自己評価は3割増し位高いものです。そうでなくては生きてゆけませんから。
この本を読んで、そうそういるいるこんな人と他人事のように思うか、一部自分の中にもこういう所があるなと思うか、その辺りが、「すみません」と言える人か、否かの分かれ道なのでしょう。
しかし、私には、どうもこの手の人が増えているという実感があり、また、手を焼いている現状があります。
我が子の非行に親がカウセリングを受けるのですが、高学歴の親が、延々と親として重責を果たしていると話し続けるというものです。
その論理に精神科医自身が取り込まれそうになるとのレポートでした。
その高学歴の親には、子供に対しての視点が欠落していました。
サルトルは、社会の、時代の「不安」に視点を持っていましたが、それは私自身の「不安」への問い掛けでもあります。
朝はU-20、今はナビスコカップと、サッカーと読書の休日でした。
マリノスが追う展開です。
ちょっと、ほろ酔いの精神で。
人は自信を持たなければ生きられない。「自信が無い」と言っている人も何かしら自分を立ち上がらせる「自信」を持っていると思います。私は小さな自信にすがって生きている自分に惚れています。その「自信」が良いにせよ悪いにせよ当の本人は「間違ってはいない」と信じ大切にしている「自信」なのです。その結果がどう出るかは遠い未来のことで、子育てもそうです。間違った子育てをしていると思いながら子供を育てている人はいないだろうし、「これでいいのか?いや、いいんだ」と自分を信じ子供を育てる。その結果は将来確実に出るのです。そう考えると恐ろしいような・・・
この本、読んでみます。そして、自分を振り返ってみようと思います。
「確かでない野党」ではなく、自分達は「確かな野党」と称している某自称革新政党(すでに自称すらしてないかも知れませんが)における、無謬性神話と同質です。
その言説は決して、相手の心に何事かを伝えようとしているのではなく、自己の正当化のためにただひたすら念仏を唱えているようなものです。
「他人に弱みを見せない」、「虚勢を張る」、「いいふりをこく(北海道弁か)」・・・誰だってそうやって生きています。
「ごめんなさい」「すいません」も、普段は簡単に言えるけれど、タイミングを逃したり、関係がこじれてしまうと、中々口にできなくなります。
人間は、何てややこしいことを引きずりながら生きているのでしょうか。