晴走雨読

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吉本隆明著『言葉からの触手』 その2

2013-08-31 17:36:45 | Weblog

 『言葉からの触手』(吉本隆明著 河出書房新社 1989年刊)

 全16章のうち脳髄を叩かれる部分は人によって違う。吉本隆明の娘である吉本ばななは、「『言葉からの触手』解説」という小文(現代詩手帳臨時増刊「吉本隆明」3吉本隆明入門 思潮社 2003年刊所収)で、第4章「書物 倒像 不在」、第5章「思い違い 二極化 逃避」、第14章「意味 像 運命」が印象深いと言っている。感じるところが違う。

 左翼の私がインパクトを受けたもうひとつの章「第12章「噂する 触れる 左翼する」から以下引用する。「そこで情緒からみた左翼の条件は、第一に、じぶんが手に触れ、確かめたことがない一切を疑うこと。はんたいに噂、じぶんが確かめたことがない一切の表現と、それを流布する者を拒絶すること。わたしの経験では噂と意図されて情報に弱いことは、旧来の左翼の条件であった。第二に思想は無思想より下位にあることを心得ていること。従来は、無思想を思想まで高めると称したり、思想が無思想より上位にあるとかんがえたりしたものが、左翼と呼ばれていた。第三に天然自然よりも良い自然は可能で造れるとかんがえること。それが「自己意識」ある自然にまで、じぶんを転化生成させてきた人間という類の「自己意識」の内容をなしてきた認識だからだ。」

 特に第二である。党の必読文献や機関紙を読むと論争には強くなるのだろうが、自分の頭で考えていないため、次第に金太郎飴党員のひとりになっていく。それを、思想を身に付けることと勘違いしている。近年では死後であるが、前衛などという考え方はまさに市井の人々を無思想と見下す物言いそのものである。

 ○○思想、○○主義などというものが思想なのであろうが、市井人のルールやものの考え方は、左翼が嫌うであろう礼節や信仰、義理と人情、仁義などであり、これらをなくして社会は動いていないのが現実である。

 <考えること>というのはどういうことかを<考えること>は、本当に難しいことである。

 

 

 


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