晴走雨読

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『戦後史をよみなおす』ノオト② その4

2013-03-03 16:11:29 | Weblog

 気が付けば早いものでもう3月、今日はひな祭り。雛人形を飾るというよりも、年に一度虫干しをするといった感じに。今年は、段数を減らして階級社会を少し平等社会に近づけてみました。

 昨日の午後から一冬に2,3回はある猛吹雪、3月の除雪は雪が湿って重たく、重労働。ママさんダンプを使って全身運動。汗をかきついでに、その後久しぶりの屋外ランニング、-2℃位だったが、真冬よりは随分と暖かく、日差しも強く感じた。

 

 私がこの著者で、「初めて知った事実」を以下に要約引用する。こういう事実の積み重ねが歴史観を作るのだろう。重要なことに対して無知を恥じる。

 焼夷弾を開発し、この国の小さな地方都市まで無差別に焼き払い、一般民衆を大量殺戮した米軍司令官カーチス=ルメイ(1906~1990)に対し、航空自衛隊を指導した功績を讃えて、1964年勲一等旭日大綬章を与えている。推薦したのは、小泉純一郎の父小泉純也といわれている。(P23)

 戦前の科目「修身」「歴史」「地理」「公民」に代わり、「社会科」が置かれた。社会科は、民主的な社会を担う公民の育成を目的とした戦後民主主義教育を象徴する教科であった。ところが1993年、高等学校における社会科が廃止され、「地理・歴史」と「公民」に分けられた。影響が出たのは、教員免許で、地歴科の教員は、「歴史」と「地理」は一緒に教えられるが、「政治経済」や「倫理社会」を教えることができなくなった。(P71)

 1947年旧民法が全面改正されたが戸籍制度は残った。戸籍は、戸と呼ばれる「家族」という集団単位によって国民を登録する目的で作成される公文書である。人民支配の根幹であり、これに基づいて徴税と徴兵が可能になる。現在、「家族」を単位とする戸籍制度を維持しているのは、日本、台湾、香港だけである。日本では大化の改新のあと、7世紀後半に戸籍が始まるが、平安初期の10世紀に律令国家が衰退し、戸籍の作成はできなくなった。再び作成したのは、明治政府で、1872年の壬申戸籍である。中世(鎌倉・室町)は、戸籍もなく「国家」としての人民掌握は不可能だった。また、統一貨幣も鋳造できず(中国銭を使用)「国家」の体をなしていなかった。(P97)

 平安初期、9世紀前半の嵯峨天皇の後から、江戸後期の18世紀末に儀式・神事の多くを復活させ朝廷権威の強化を図った光格天皇までの1000年近くの間、「天皇」の呼称が使われていない。「主上」「みかど」「内裏」「院」などと様々な呼び方がされていた。(P97)

 2010年に公開されたCIAの文書で、朝鮮戦争休戦後に北朝鮮が韓国に侵攻した場合、米国は北朝鮮の軍事施設に加え、中国の5都市(吉林、青島、瀋陽、天津、西安)に核攻撃をすることを検討していたことが明らかになった。一方、ソ連の核による報復は、当時はまだ大陸間弾道ミサイルの技術がなかったので、米軍のいるソウル、釜山、朝鮮半島への攻撃拠点で米軍基地のある日本や沖縄の諸都市だったかもしれない。(P149)

 1948年12月23日、東条英機らA級戦犯7名が巣鴨プリズン(現在の池袋サンシャインシティ)で処刑された。この日は、当時の皇太子(現在の天皇)の誕生日であった。(P151)

 1966年に小笠原諸島が米国から日本(東京都)に返還された。小笠原諸島は、無人島だったところに欧米系の人たちが住み着いて開発を始めたところである。ポリネシアン系の血も入っている。明治初期に日本が領有したが、当時の英米はほとんど興味がなかったようだ。明治以降は、日本人が多く移住して住んでいたが、敗戦後、米国は欧米系の人間だけを小笠原に残し、他の日本人はすべて追放した。(P232)


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