晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

高橋源一郎 『丘の上のバカ ぼくらの民主主義なんだぜ2』

2017-01-27 17:03:51 | Weblog

 秋元札幌市長の対応が後手を踏んでいないか。日ハムのドーム使用問題では、最初は出たいなら出ていけ、次に経営上何とか使ってほしい、今は代替地を探している、と考えに一貫性が感じられない。小さな隣町に先手を打たれっぱなしだ。給食施設のアスベスト問題でも、他施設の調査、余力施設の活用による給食提供、給食費の返還まで随分と時間を要した。市長は市教委をコントロールできていないのではないか。12月の除雪対応もそうだ。市役所全体も久しぶりに身内出身の市長ということで、緩んでいるのではないか。僕が感じるのは、若作りは良いが年齢の割には顔つきが幼いことだ。修羅場をくぐり抜けてきたような隙の無さが見えない。

 追記:夕方のニュースで、スポーツ施設の入札問題で、2ヶ月前に市長は改善を指示したが、未だに全く変わってない旨のコメントがあった。東京都のように、首長が職員になめられ始めたのではないか。

 

『丘の上のバカ ぼくらの民主主義なんだぜ2』(高橋源一郎著 朝日新書 2016年刊)                

 本書は、読んでもらえる文章のポイントはどこにあるのかという問いに答える文章読本である。主語があり、書く人自身が文章の中に存在することが重要であると読み取れる。「私」、と「私たち」もしくは「主語なし」との違いである。「私たち」もしくは「主語なし」の文章は、いくら美しい言葉を並べても空々しさしか与えない。先日もここで述べた「学校だより」における校長の没個性文、地域に開かれた学校というねらいを持って町内会に対して回覧をしているのだろうが、そこに国語的には非の打ち所の無い文章であっても、校長自身が不在の文章であれば、紙と手間の無駄だと思う。

 本書で引用されているオバマ大統領のスピーチには、誰も否定することができないような美しく正しい言葉が散りばめられている。しかし、彼は決して「私」という主語を用いない。用いないことによって、自身の考えが表明されないようになっている。「私たち」という主語は使っているが、そこに「私」は不在であり、「私たち」では人類全体を代表としてというような一般論を語っているに過ぎない。

 一方、美智子皇后のことばは、皇族という政治的な発言を禁じられた制約の中で、あえて言葉で「私はこう思う」と表現しなくても、そこに「私」がいるような表現で、「私」の平和への強い想いが読み取ることができる。そこでは、「私たち」誰もが経験したような平凡な過去の思い出を話しながら、直接的な表現を避けながら訴えることができている。よく考え抜かれたスピーチだと思う。

 僕は、本書を以上のように読んだ。

コメント (2)
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