晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

石川孝織 『釧路炭田 炭鉱(ヤマ)と鉄路と』

2015-03-26 20:50:42 | Weblog

 あと、数日で定年退職。送別会が続く嬉しい悲鳴。お世話になった気持ちをどう言葉にしたら良いか。一人でいる時間が大好きなのだが、人は一人では何にもできないことも学んだ会社生活。ついに最後の時間が来た。

 

 『釧路炭田 炭鉱(ヤマ)と鉄路と』(石川孝織著 釧路市立博物館友の会 水公社 2014年刊)                      

 本書は、かつて太平洋(唯一現存している)、雄別、尺別炭鉱などがあった釧路炭田の産業史であり、そこに暮らす人々の生活史、そして著者が強い関心を持つ鉄道史でもある。北海道新聞で70回にわたって連載された「記憶の一枚『釧路炭田再発見』」(2012.9.7~2014.2.28)をまとめたものである。本書をそのような歴史として理解する読み方もあるが、僕にとっては、子どもの頃に育った環境そのもの、そしてそれは近所の風景なのである。掲載されている写真の背景にある草っ原や、線路に沿って見える海岸が毎日の主戦場だった。

 全部のことが思い出させる。釧路臨港鉄道に乗ったな。春採駅、城山駅、観月園と懐かしい駅名。子どもたちも普通に炭鉱の施設の名前を知っていた。ポケット、ズリ山、選炭場(ば)、扇風機、人車、炭車、一番方、二番方。お父さんが寝ているので三番方の家の近くでは遊ばないという地域のルール。子どもたちみんなで共同浴場にも行った。益浦という地区にあったので、満寿湯。配給所と呼ばれていた店屋が、太平洋商事になってスーパータイヘイヨー、今は釧路生協。太平洋スカイランドでも遊んだな。小中学校の頃の友だちのお父さんが、炭労の委員長として演説をしている写真も載っている。メーデーには、栄町公園に行った。

 本書ではあまり触れられていないが、炭鉱は危険な職場であり、お父さんが事故で亡くなったので、お母さんが炭鉱の事務所で働いているという同級生も何人かいた。また、同じ坑内員でも下請けの人たちは、北海道と九州の炭鉱の間を行ったり来たりしていて、子どもが何回も転校を繰り返していた。

 子どもの頃の色んなことが思い出され、何だか胸が締め付けられるようで、みんなが元気だと何よりなのだが、きっとそれぞれの人生を生きているのでしょう。風のたよりでは、たまにクラス会も開かれているようだが、離れて暮らしている時間が経ちすぎていて、参加するのが少し億劫なのが正直な気持ち。

 僕は釧路で生まれ育ったが、ひとそれぞれ生まれ育った土地があり、周りには人がおり、学校に通い、色んなことを覚えたり、経験したり、かけがえのない時間を過ごした土地がある。この人は、どこでどんな風に育ち、成長したのだろうか、聞いてみたいと思う人もまたいる。自分でちょっと、齢を取ったと感じる。

 

コメント
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