晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『日本の十五大神社』

2015-03-21 17:09:01 | Weblog

 いよいよ月末で退職です。ありがたいことに様々な方々に送別会を催していただいています。どんな挨拶をいったらいいだろうかと腐心しています。その場、その場の方々に合わせた内容で、自分らしく、少しでも記憶に残るような、そして気持ちも伝えることのできる、かつ即興的に感じる、とても欲張りな挨拶をと考えています。

 週末ラン、今年は気温が暖かいので順調に身体が動いています。

 

 『日本の十五大神社』(久能木紀子他著 洋泉社MOOK 2015年刊)

 この国の隅々まで神社がある。北海道で身近にある神社は、本州にある神社の支店であることが多い。祭られている神様は様々であるが、アマテラスオオミカミ(天照大御神)であれば、伊勢神宮が本店ということになる。

 僕のこれまでの先入観では、神社=国家神道=天皇制となるのであるが、神道=天皇制という観念を作り上げたのは明治政府であって、薩摩、長州の土侍らが自らの権威づけのために奥に眠っていた天皇を引っ張り出し、日本国という国民国家という擬制を構築したのである。

 本書を読むと、天皇家が豪族の中で力を持ち、畿内を中心に諸勢力を平定し、天皇制として確立した後にそれまでの歴史を再構成するために書きあげられた「古事記」「日本書記」に書かれている神話の中の神々が各地の神社に祭られていることがわかる。オオクニヌシノミコト(大国主命)を祭っている出雲大社のようにその創建が、天皇制よりもずっと古く神代の例も多く、天皇制は接ぎ木のごとく後世になってそれまでの歴史に接続したものである。

 古来、この国の神は八百万の神であり、山、岩、木、滝、動物、植物など自然崇拝から始まった。また、神話には、地方豪族との抗争が国譲りの物語となっていたり、蝦夷征伐の事実も書かれており、諏訪大社、鹿島神社などはその闘いの拠点だったことが伺える。鹿島神社は、地下のナマズを抑え込んでいて、地震封じの神社でもあるといわれるのは、太古から太平洋岸で大地震が発生していたためであろう。

 僕のように今頃(還暦!)になってこの国の歴史の初源に神話があり、それを学ぶ必要性を感じているのはかなり手遅れではないだろうか。戦前の皇国史観への反省から、極端に振れてしまってこれまで神話を避けてきた歴史教育を今一度再構成する必要があるのではないかと思う。初源がわからなければ、先端(未来の方向性)を見出すことは困難なことと考える。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする