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「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その3

2014-02-16 15:37:00 | Weblog

 久しぶりに営業の入らなかった週末、昨日は東急デパート、地下食料品売り場のイートイン「天一」、今日の午後はランニング、風が強かったが気温-1℃は暖かく感じる。昨夜からの積雪が5cmほどあり足元がザックザックでエネルギーを使う。足首を鍛えるには有効だと思うが、中々前に進まない。

 

 「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その3

 マルクスの分析は、第2章「交換過程」、第3章「貨幣または商品流通」、第4章「貨幣の資本への変容」へと続く。

 この章では、剰余価値(新たに生み出される価値)の発生について説明するが、剰余価値は流通過程から発生し得ないが、同時に流通過程から発生しなければならないという矛盾にぶつかる。(P247)「サナギからチョウへの脱皮は流通圏のなかで生ずべきものであるのと同時に、流通圏のなかで生ずべきものともいえない、これが問題の条件である。」そこでマルクスは以降の論理の飛躍を表す有名な言葉を発する。(P247)「ここがロードス、さあ跳びたまえ!」と。

 次に、特殊な商品、その商品の消費が価値を生み出す、それは「労働力」という商品である。流通過程では、労働力の購買者(資本家)と販売者(労働者)は自由意思で労働契約を結ぶため「自由」が、互いに商品所有者として等価物交換をするので「平等」が、自分のものを自由に処分するのだから「財産」が、それぞれ保障されている。「自由、平等、(私有)財産」は、市民社会で保障されるべき価値である。

 

(P261)「しかし、流通圏を立ち去るとなると、われらが舞台俳優たちの顔つきも変わってくるようである。かつての貨幣所有者は資本家として一歩前を歩み、他方、労働力の所持者は彼の労働者としてそのあとに続く。前者はもったいぶった笑みを浮かべ仕事に血道を上げ、後者はおずおずと抵抗しながらついていく。まるで身を粉にしながら働いたあげく、場でなめし皮屋を待つほかない家畜のように。」という記述で、第4章「貨幣の資本への変容」が結ばれる。

 さて、いよいよマルクスの本領発揮ということになる。搾取(搾り取られる)される労働者という存在が明らかになる。

 私たちは毎日会社で働いているが、血も涙もない資本家がいて、弱い立場の労働者を雇用し、搾取しているという場面を感じることがあるだろうか。

 私の祖父は、釧路で小さな呉服店を家族だけで営んでいた。「他人(ひと)を雇わないと商売は大きくならない。でも、私は他人に任せることができないんだ。」とよく言っていた。ここからわかることは、従業員には給料以上に働いてもらい、その分を投資に回さないと経営を拡大できない、搾取しないと商売を大きくできないということである。

 私の子どもの頃は、1960年代の地方都市で営んでいた小さな商売、魚屋、八百屋、肉屋、果物屋、お菓子屋、風呂屋、床屋・・、必要な商品やサービスをお互いで売買し合いながら、利益を確保し生計を維持していた。しかし、そこに、大きな資本の大型店などが進出してくると、競争に太刀打ちできず店を畳む人が続出した。だが、大型店における労働は、非正規雇用、低賃金労働が常態化している。

 

 

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