晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『橋爪大三郎のマルクス講義』

2014-02-06 20:50:55 | Weblog

 『橋爪大三郎のマルクス講義―現代を読み解く『資本論』』(橋爪大三郎著 飢餓陣営叢書7 言視舎 2014年刊)   

 私は、「『資本論』の中におけるマルクスの心情」その2(2014.1.29)で、「私たちは、今まで「社会は悪い」という前提で物事を語っていなかっただろうか。」と書いた。

 本書で、橋爪氏は、(P78引用)「ヘーゲルに従ってマルクスは議論を組み立てている。ヘーゲルは弁証法を用いる。弁証法は、現状は間違っているので、理想の状態に向かって変化していくと考える。」という。しかし、「アダム・スミスは、近代の市場メカニズムを完全だと思っている。」と、両社は現状を正反対に捉えている。市場に「神の見えざる手」があると信頼を寄せるスミスと、国家が市場の矛盾を解消するために出現しなければならないとする論理は全く前提が異なっている。

 (P82)さらに、「キリスト教は、今ある世界は不完全だと考えている。人間はその本質において、罪深いと考えている。人間は、自分で自分を救うことができない。神が救ってくれる。」という論理で、弁証法の認識に近い。しかし、「日本人は、自分で自分を救うことができると思っている。この社会は基本的に正しい。足りないのは努力である。」という感覚になる。日本人にキリスト教(弁証法)が広まらない理由である。

 

(P83)マルクス主義は、「この社会は間違っている。プロレタリア(一般大衆)は自分で自分を解放できない。」のだから、一般大衆の力には信頼を置いていない。解放は、知識人、インテリ、階級意識に目覚めた前衛組織、すなわち共産党(指導部)が超越的な存在、イコール神となって成し遂げられるのである。ちなみに吉本隆明は、「大衆の原像」を主張し、それはあくまで大衆に信を置くということであり、共産党には希望を持たないということである。

 革命とキリスト教の終末はよく似ている。(P84)「共産党員が天使の軍勢に当たり、革命の日が裁きの日、共産主義社会が神の国にあたる。」

 私が、「社会は悪い」という前提で物事を考えているということは、間違いなく左翼に親和性を持っていることの証明であるが、「そんなに悪くないよ」と考えている人が多いこの国では、そう簡単には多数派になることはないと考える。

 

 前回の安倍内閣は、お友達人事で躓いたが、今回は、前回の反省からか、日銀、日本版国家安全情報局、そして犬HKと、お友達ではなく同志人事を進めているようだが、そろそろ躓く予感がする。揃いも揃って、絶望的に救いようがない発言を連発している。ただ、それを射抜くようなキレのある言説を私たちの方が持ち合わせていない。

 

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