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「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その4  

2014-02-22 19:07:45 | Weblog

 午前中は、町内会で除雪ボランティア、午後から週末ラン、気温は-3℃位だが、日差しが強くなったと感じました。北海道にも着実に春が近づいています。ソチ五輪はほとんど見ていません。あの絶叫調のアナウンスが鼻につきます。TV、新聞で、どれだけの時間と紙面が五輪に割かれていることか。その分、他の報道が減っています。

 

 「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その4  

 マルクスの分析は、第5章「労働過程と価値増殖過程」、第6章「不変資本と可変資本」、第7章「剰余価値率」と続く。

 この章の第3節『シーニョアの「最後の一時間」』。19世紀マルクスの時代、イギリスでは18歳未満の者は、1日に11時間半以上働かせてはならないとう法律があった。(現在の日本の労働基準法では8時間労働)

 それを、1日10時間労働をという要求運動に対して、オックスフォード大学のシーニョア教授が「最後の一時間」説を唱えて反対した。それは、資本家の利潤は労働者の労働時間の最後の1時間から得られるのだから、もし10時間労働にしたら資本家の利益が無くなってしまうという珍説であった。

 この節の最後にマルクスは言う。(P332)「わざわいにみちた『最後の一時間』について、諸君は、千年王国信者が世界の終末について広めた以上の空想物語をくりひろげているが、これはまったくのナンセンスである。最後の一時間が失われたところで、諸君の『純利得』が失われることもなければ、諸君に使われている少年少女の『魂の純潔』が失われることもけっしてないだろう。」

 『魂の純潔』について、(P333)(註32a)「作業場の暖かく純粋な道徳的雰囲気の中に閉じこめておかずに、冷酷で猥雑な下界に『一時間』早く放りだすようなことをすれば、彼らの魂の平安がその怠惰と悪徳のために奪われることになる」との註書きがある。

 『魂の純潔』から働くということをどう捉えるかを考えてみたい。私の労働観を振り返ると年齢とともに変わったと思う。学校を卒業したが中々職にありつけなかった期間は、社会から自分が否定されているような、社会に自分は必要とされていないような、社会の中に自分の居所が無いような感じを持った。就職活動に苦労している今の若者と同じだと思う。

 就職したが、必ずしも自分の希望した職業で無いと感じていた頃(今の会社です。)は、「ご飯を食べるために」手段としての労働と割り切って働いた。他人から後ろ指を刺されない程度に、つきあいも最小限にしていた。

 そのうち、会社の中で人間関係ができたり、ランニングウェアの胸に会社の名前を入れるようになったり、年齢とともに職業を変える可能性が無くなっていくのとともに、労働観に変化が生じてきた。組織として働き、人に使われたり、人を使ったり、たまに実績を評価されたりすると、仕事を通じてそれなりの自己実現を感じた。ただ、今でも不本意な仕事を命じられたりすると「ご飯を食べるため」には仕方がないと自分を都合よく合理化している。

 もし、個人として自営業的な仕事をしていたら、働いた分が自分に返ってくるのだから、労働時間を特に意識しないで一日中働いているだろうなどと、今とは違った労働観を持ったのではないかと考える。

 

 

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