晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

1969年

2010-05-04 21:04:40 | Weblog
『思想の言葉Ⅱ「思想」1962―1975』(岩波書店編集部編 2001年刊)より

 1969年の年表をめくると、1月東大安田講堂封鎖解除、7月アポロ11号月面着陸とある。さらに、今につながる事柄では、2月B52撤去要求沖縄県民統一行動、12月佐藤・ニクソン会談、沖縄の’72年返還、安保堅持を声明とある。最近明らかになった日米の密約、沖縄基地問題は、40年を経たまさに今日まで。

 「思想」1969年8月号に掲載された、水田洋(名古屋大学教授、社会思想史)の『あそびとしての学問、たたかいとしての学問』から感じたことを記す。

 1969年は、大学闘争としては1968年という高揚期を過ぎ、1970年代になると党派闘争が激しくなる、そんな時期である。

 水田氏は、東大全共闘の最首悟氏(助手共闘)の「自分の一番の底には、生物学が本当に好きであることがある」という言葉を捉え、マルクーゼの労働の遊びへの転化に倣い、好きなものとしての学問は楽しい遊びではなくてはならない。それが苦痛としているのは、権力、資本、既成体制としての大学である。

 しかし、抑圧的諸条件との闘いを抜きにした学問というものがありうるであろうか。権力や資本といった学問外的抑圧を排除したとしても、学問をすることそのものは既成の学問という体系(権威)への反逆であると述べる。

 
 水田氏が前半で述べているのは、職業としての学問という特殊性があるが、マルクスの「疎外された労働」観でそのものであろう。資本のもとでの労働は本来的な労働では無いと。

 ただし、これをマルクス「資本論」第8章「労働日(時間)」に矮小化した議論、資本のもとでの労働は苦役以外の何ものでもない、人間は、労働以外の自由時間で自己を回復する、しかるに労働者の戦いの歴史は、労働時間の短縮を目指してきたのである、などという言説は論外と考える。

 私は、水田氏のエッセイから新たな労働観の提示の必要性、それも実際に労働している者の実感を伴った労働観の獲得無しには、オルタナティブの提示はできないと考える。

 労働は、苦痛か?長時間労働、単純労働など苦痛と感じる側面はおおいにある。また、会社や組織の方針の下では、個人の考え方が必ずしも生かされないことも多い。
 苦痛だけか?上司に誉められたり、判断を任されたり、お客さんに感謝されたり、人の役に立っていると感じた時は楽しい。
 労働の無い状態は楽しいか?若者の就職難、働き盛りのリストラ、定年、福祉が整っていて生活不安が無い場合でも、楽しいように思えない。
 職業選択の基準は?その職業が好き、やりがいを感じる、高収入、安定、これしか無い、
労働時間以外で自己実現ができるか?好きなことができる。本来の自分に戻れる。それだけか。

 こうやって自問自答しているのだが、人間は労働においても、労働以外においても関係性を求めているということがわかる。他者との関係の中で、自己を位置づけながら生きている。それは、楽しいとか、苦しいとかといった個人的な主観ではなく、他者との関係構築の中でどのような共同主観性を持てるのかということではないだろうか。

 
コメント
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