『東京ひとり散歩』(池内紀著 中公新書 2009年刊)&『東京―大都会の顔―』(岩波写真文庫47 1952年刊)
私は、東京が好きだ。いつでも東京に行きたいと思う。東京にはいつも何かがある。この国の、端っこに生まれ育ったからなのか、東京はあこがれの街であり、花の都なのである。
『東京ひとり散歩』は、18歳で上京してから東京に居続ける自らを東京の居候と称する著者の散歩紀行文。長期間にわたり滞在したことのない私には、著者が紹介するスポットのうち、霞ヶ関、浅草、八重洲、神田、新橋などしか訪れたことがない。著者は、実際に足を使って、観光ではもちろん行かない場所、東京人もめったに行くことの無い場所を尋ね、見たり聞いたり食べたりした体験とともに、歴史やいわれを丹念に調べて語る。今度、東京に行くことがあったら、行って見たくなった所もある。
東京ということで、確か積読山脈のどこかに東京の写真集があったはずと探して見つけたのが、昔、古書店で買った岩波写真文庫の『東京―大都会の顔―』。およそ60年前に刊行されたシリーズの一冊であるが、当時の東京の姿がわかる貴重な記録だと思う。
そこには、昭和20年代の半ば、戦災からようやく復興した東京がある。家も、服装も貧しいが、基本的な生活は今と何も変わっていない。電車が走り、ゴミが発生し、市場が栄える。人や物を運び、工場や会社で働く。野球や映画もある。今と同じ。
文章と写真、言葉か映像か。どちらが真実に近い姿を表しているのだろうか。言葉を紡ぐ文章は、作者の中で思いを醗酵させたものを著者の主観のフィルターを通して表現したものである。写真は、被写体の持つ瞬間をそのまま写しているはずなのであるが、写真から感じるものは、見る人の主観によることになる。
私は、真実というものは、「ここの今」にしか無いと思う。文章も写真も主観というフィルターを通した今の保存である。真実は、今という瞬間だけである。
私は、東京が好きだ。いつでも東京に行きたいと思う。東京にはいつも何かがある。この国の、端っこに生まれ育ったからなのか、東京はあこがれの街であり、花の都なのである。
『東京ひとり散歩』は、18歳で上京してから東京に居続ける自らを東京の居候と称する著者の散歩紀行文。長期間にわたり滞在したことのない私には、著者が紹介するスポットのうち、霞ヶ関、浅草、八重洲、神田、新橋などしか訪れたことがない。著者は、実際に足を使って、観光ではもちろん行かない場所、東京人もめったに行くことの無い場所を尋ね、見たり聞いたり食べたりした体験とともに、歴史やいわれを丹念に調べて語る。今度、東京に行くことがあったら、行って見たくなった所もある。
東京ということで、確か積読山脈のどこかに東京の写真集があったはずと探して見つけたのが、昔、古書店で買った岩波写真文庫の『東京―大都会の顔―』。およそ60年前に刊行されたシリーズの一冊であるが、当時の東京の姿がわかる貴重な記録だと思う。
そこには、昭和20年代の半ば、戦災からようやく復興した東京がある。家も、服装も貧しいが、基本的な生活は今と何も変わっていない。電車が走り、ゴミが発生し、市場が栄える。人や物を運び、工場や会社で働く。野球や映画もある。今と同じ。
文章と写真、言葉か映像か。どちらが真実に近い姿を表しているのだろうか。言葉を紡ぐ文章は、作者の中で思いを醗酵させたものを著者の主観のフィルターを通して表現したものである。写真は、被写体の持つ瞬間をそのまま写しているはずなのであるが、写真から感じるものは、見る人の主観によることになる。
私は、真実というものは、「ここの今」にしか無いと思う。文章も写真も主観というフィルターを通した今の保存である。真実は、今という瞬間だけである。