晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

拝啓 山口二郎様へ フォーラムその1

2008-08-01 19:59:13 | Weblog
 私は、「フォーラムIN札幌時計台」の第2シリーズに3月から通い始めたが、2007年8月からの第1シリーズの記録が、『札幌時計台レッスン 政治を語る言葉』(山口二郎編 七つ森書館 2008年刊)にまとめられた。

 第1章「岐路に立つ戦後日本」(2008.8.15)(山口二郎)から。
 山口氏は、アジア・太平洋戦争の総括を以下のようにしている。
①日本の侵略であり、誤った戦争である。
②戦後民主主義は戦争の犠牲者のうえに成立している。
③戦後民主主義を守り、育て、再び謝った路線に進まないようにすることこそ、戦争犠牲者に報いる道である。

 さらに、山口氏が提示する視点としては、
・上記の②について、敗戦を解放と規定する側にも、犠牲者に対する一定の敬意や悲しみの共有が必要だ。
・戦前と戦後の断絶のみを重視するのではなく、自由や民主主義の追求という理念が連続しているということを重視する必要がある。その連続性を強調することによって、ナショナリズムと戦後民主主義の接合を図りたい。


 上記の総括からは、常に山口氏に付きまとう脇の甘さ、お人好しぶりが窺える。氏は、対立するイデオロギーを何とか融和させようと努力し、その間に存在する容易に埋まりようのない溝を、何とか埋めようとする。偏りの無い、中立、中庸を探ろうとする。

 山口氏は、「戦争で亡くなった方は、非業の死、無念の死と思っている。」と述べる。それは、感情的次元の感傷であって、天皇制ファシズムの犠牲というような本質にせまった分析になっていない。なぜ、「天皇のために無駄死にした!」と言えないのか。そこには、反戦の志の欠片もない。

 また、氏は「戦争によって亡くなった人たちの追悼はいつまでも続けるべきだ。しかし、追悼の仕方が問題だ。一国の最高指導者が靖国神社に参拝することには反対だ。」と述べる。

 政治学者としては、靖国神社の歴史的な問題や戦争責任の所在など、もっと社会を重層的分析すべきではないか。

 氏は、若くして北海道大学に赴任し、確か33歳で教授に昇任、新進気鋭の学者として将来は大学者になるのではと嘱望されていたが、そのお人好しぶりから、政治情況の読み違えも多い。

 一番ひどかったのは、マスコミに露出、当時「政治改革」を声高に叫んでいたが、結果的に、老獪な保守政治家などに巧く利用されたあげく、小選挙区制導入の先導役を担ってしまったことである。

 象牙の塔に籠もらなくてもいい。旧社会党、現民主党の応援団として、現実政治にコミットしてもいいと思う。このフォーラムの主宰活動など私たちに学べる場を作っていただくのはとてもうれしい。

 しかし、政治学者として、このカオス的な情況を学問的に解明してほしいものだ。



 「ヤー、チャイカ!」(私は、カモメ!)
コメント
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