晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

夕張の真実 第1回

2008-03-20 10:27:07 | Weblog
 フォーラム in 札幌時計台(2008.3.18)、「―夕張から世界へー」のテーマで、立命館大学 高橋伸彰教授(専門は、日本経済論)の講演を聞いた。

 高橋氏は、三笠生まれ、夕張で中学校まで過ごしたそうだ。どちらも炭鉱町で、私の育った釧路の炭住街と同じような情景を語られていて、大変親しみを感じた。



 今回の収穫は、夕張が財政破綻した真の理由がわかったことである。

 この間、メディアでは、中田前市長を始めとする夕張市の自己責任論が展開された。破産した観光施設への投資が、どれだけ破綻の原因になっていたかの検証はなかった。

 国の石炭から石油へのエネルギー政策の転換に際し、北炭(北海道炭鉱汽船)は、本来は閉山対策に利用すべき国からの閉山交付金を、新鉱開発(新大夕張炭鉱)に投入して失敗した。ここが、他の産炭地と大きく異なるところである。

 夕張市の負債600数十億円のうち、倒産した北炭からのライフラインの買取や整備に500億円強、観光施設への投資による市の借金は100億円強である。従がって、財政破綻の主因は、北炭が企業責任で賄っていた市民サービスを閉山によって急に市が代替するために必要となった借金である。



 このことを理解するためには、釧路の頃も思い出しながら、炭鉱町の様子を説明する必要がある。

 一言でいうと、生活全てが炭鉱で成り立っている。それは、炭鉱に繋がっていれば、何とか暮らしていけるということだ。

 炭鉱事故で、夫を失っても炭鉱は奥さんを関連企業などで再雇用し生活の面倒を見てくれる。事故は、頻繁に起きていて、亡くなった人の炭住の玄関には、「忌中」の張り紙がしてあった。

 地域全体に全山放送が流れ、出炭量など日常的な情報が流れていた。災害の発生を知らせるサイレンもあった。炭鉱病院、映画館、温泉レジャーセンター、共同風呂、神社などを炭鉱が運営し、一般市民にも開放していた。日用品は、配給所や購買部で「つけ」で替えたので現金が無くても当座の生活は何とかなった。

 炭住が確保され、粉炭を固めた豆炭がふんだんに配給された。暖房費が無料なので、がんがんストーブを焚いて冬でも室内では半袖で過ごした。電気、水道はどうだったかはわからない。市議会には、炭鉱枠の議席が確保されていた。

 炭鉱内の階層が地域であからさまになっていて、鉱業所長をトップに、社員、鉱員の序列によって住宅の大きさや設備に差があった。鉱長の社宅は高台の見晴らしの良い所にあって、塀が回されていてお屋敷といった感じだった。鉱員になると木造の長屋、それにも2戸、4戸、6戸長屋と序列があった。

 この他に、下請け、孫受けの鉱員がいて、生活に格差があった。下請けの鉱員の子どもには、九州と北海道の間を何回も転向していた同級生もいた。私達が生まれた年、昭和29年に発生した太平洋炭鉱での大事故でお父さんを亡くし、お父さんの顔を見たことがないという子どももいた。

 早朝に勤務を終えてくる三番方の家の近くでは、日中は寝ているので子どもたちは大きな声で遊ばないというルールがあった。
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