真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「養老ホームの生態 肉欲ヘルパー」(2008/製作:シネマアーク/提供:Xces Film/監督:下元哲/脚本:関根和美/企画:亀井戸粋人・奥田幸一/撮影:斎藤和弘/照明:代田橋男/編集:酒井正次/スチール:佐藤初太郎/録音:シネキャビン/助監督:高田宝重/監督助手:三谷彩子/撮影助手:浅倉茉里子/照明助手:塚本宣威/編集助手:鷹野朋子/選曲:梅沢身知子/現像:東映ラボ・テック/出演:Asami・久須美欽一・酒井あずさ・なかみつせいじ・吉行由美)。出演者中、吉行由美がポスターには吉行由実。端的に、本篇クレジットの方が仕出かしたのか?
 折に触れ繰り返し挿み込まれる、シャープな半透明のサングラスをかけ強い海風に吹かれる、久須美欽一の渋い表情にて開巻。
 海と山に恵まれた景勝地、伊豆か?そこそこの資産家らしい岩淵宗一郎(久須美)は元看護婦で、離婚歴のあるらしいヘルパーの三浦友紀(吉行)と暮らす。岩淵が肉感的なヘルパーに下心を抱く旨をモノローグで告白するや否や、友紀が薄い格好で汗を拭きながら風呂を掃除する模様に際し早速スローモーションが火を噴く。クレジットを真に受けるならばカメラを回してゐるのは当人ではないものの、直後に畳み込まれる友紀が排泄の愉悦に震へるカットといひ、全く以て紛ふことなき下元哲の画作りである。独り痛飲する友紀が、岩淵の視線に気付きつつ酒瓶を用ゐド迫力の自慰に狂ふエクストリーム―但しここでの、潮噴きは角度が明後日だ―を経て、岩淵が直に好意を伝へると何故か即座に、翌日友紀は家内の現金類を持ち出し姿を消す。無頓着なドライさではあるが、後々微妙に効いて来ぬでもない。カット明けると超絶の速さで、そんな次第で出された募集に応じたヘルパー資格を持つ西尾太一(Asami)と、無資格者で太一の姉・千春(酒井)が岩淵の面接を受ける。弟の苦手な炊事や掃除を担当したい、とかいふ千春は正直別に不要ではあつたが、太一を気に入つた岩淵は、ひとまづ姉弟を纏めて雇ふことにする。声の細さ以外は、体格から絶妙に青年に見える太一と岩淵が、当初から妙に距離を近づけるのはいいとして、二人が階段の下りしなに踊り場で会話を交す件が、カメラ位置と動線の塩梅で二人が画面の右端ギリギリはおろか若干外れてすらみせるのは、下元哲がカメラマン・ディレクターである点も鑑みるとなほさら頂けない。話者がフレームに削られる一方で、中央には何の意味もない壁面がのうのうと広がる様は相当に間が抜けてゐる。体調も良く、山道に太一と散策に赴いた岩淵は、普請の安さが迸るが唐突な再登場を果たす友紀が、木村隆二(なかみつ)と森中で致す現場に遭遇する。贅沢にもなかみつせいじは、完全無欠に絡みの一幕を駆け抜ける濡れ場要員。友紀は岩淵家での戦果は早くも散財したのか、事後木村が金を支払はうとするのもよく判らない。話を戻すと、ジーンズを膨らませる怒張を注視する岩淵の手を取つた、太一は自身の男性自身に誘(いざな)ふ。どちらからともなく岩淵は扱き、太一は着衣の中に果てる。その夜、風呂場でのちよつとしたイマジンも噛ませて、岩淵は戯れに、何か余興で楽しませては呉れまいかと太一に申し出る。特にこれといつた持ち芸もない太一は逡巡するが、褒美を出すとの岩淵の声に一計を案じ、一旦退出後女装して戻つて来る。大いに喜ぶも通り越し普通に欲情した岩淵に、太一も抱かれる、のではなく、重ねて倒錯的に、後ろから女の格好をした太一が岩淵を貫く。一方その頃、精の放たれた弟の白いブリーフに点火された千春が、冒頭の友紀と同じ画角で、自ら浣腸し悶え狂ふ外連を叩き込むのは展開上は殆ど無茶苦茶だが、下元哲的にはここにありといはんばかりの全速全肯定である。
 迂闊といふか何といふか、本篇に触れるまで気づかなかったが太一役のAsamiとは、ある意味何のことはない誰あらう亜紗美である。しかも、役作りのために体重を増やしたのか顔がパンパンどころか、全体的にゴツい。といふと、要は翌年松岡邦彦の「男で愛して 女でも愛して -盗まれた情火-」に先立つ、昨今流行るところの“男の娘”の、未だ統一的な名称は安定を見ない逆バージョンを主モチーフに抱いた変化球ピンクである。とはいへ、亜紗美の男装があまりにも様になつてゐるのが功を奏してか禍してか、一見するに太一は一貫して中性的ですらない男として描かれ、トランスヴェスチズムの蘞味なり幻想的な側面が、追及されるでは特にはない。太一と千春が、近親相姦関係にあるのか、単なる犯罪カップルに過ぎないのかも清々しく不分明なまゝに済まされる以降は、深化も何もこれといつたテーマの不存在さへ感じさせるほどに、軽やかに平板でもある。この点に関しては、改めて俯瞰すれば吉行由実に割かれる尺の潤沢さも、全般的には起因しよう。尤も、決定打に欠いた物語が投げやりに進行した上での、オーラスに至つて漸くその真価を発揮する、岩淵が浜風にその身を曝す画の古い映画のやうな無造作な乾きは、最終的な映画トータルの薄さまで含めて逆に堪らない。松原一郎名義による、最後の最後に狙ひ澄まされた鮮烈が炸裂する「折檻調教 おもちやな私」(2009)も踏まへると、改めていふにもほどがあるが、このショット感は裸映画から裸を差し引いた際の、下元哲の主力装備といへるやうに思へる。詰まるところが、邪推するに異性装した女優が主人公といふ、エクセスから与へられた変則的な御題を特に考慮するでもなく、下元哲が普通に、下元哲のピンク映画を何時も通りに撮り上げた一作といふ評価が、最も適当であるのではなからうか。

 ところで、そもそも岩淵は自宅で、養老ホームではない件については最早気にしない。その程度の羊頭狗肉は、往々にしてある瑣末。一本の商業映画の、タイトルであることを忘れればの話だが。冒頭に触れた吉行由実の表記のブレ共々、全く以て実に大らかな世界ではある。


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